跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/30 BGM: Depeche Mode - Master and Servant

今日は早番だった。仕事中、いつものように過去の思い出を吟味することについついふけってしまった。とりわけぼくが外界・外部と関わる中で(学生時代やいまの会社に入ってから、つまり10代から30代までの広いレンジの中で)他者と切り結ばなければならなかった文字どおり実に「手厳しい」、ある意味「血なまぐさい」とさえ言える関係性についてだ。いや、ぼくとしてはなんら抽象的なことを物申したいわけではない(ごめんなさい、ぼくの書き方はいつだって無駄にむずかしいのだ)。ぼくが言いたいのは過去、少なくともぼくからすれば無慈悲・残酷な関係の中で生きることを余儀なくされていじめやもしかしたらパワハラめいたことも経由せざるを得ず、主観の域を出ないにせよそういった関係において不条理や非理性的な目に遭うこともそう少なくなかったということだ。いや、こういうのはべつだんぼくが発達障害者だったからとかまわりがわからず屋ばかりだったからとかそんな話ではなく、「誰にでもあること」「一度は通る道」というやつかもしれない。「それが人生だ」と……でも、少なくともこの発達障害者から見ればクラスメイトや先生たちはぼくをたんに奇矯な・頭のいかれた子(ぼくは関西っ子なので、つまり「アホの子」かな)と見なしてそれ以上ケアしなかった。ぼくはつねに多数派の言い分・価値観に屈服するしかなかったことを思い出させられる。

そんな不条理きわまりない時期を過ごしたからか、いまだってぼくは実を言えば「謝罪すること」「ごめんなさいと言うこと」、そして理由を説明して相手を納得させて丸く収めるということが実にヘタクソなのだった。このぼくの価値観からすれば、人間的な関係性というものがいまだ「支配と隷従」「主と従」といった極端すぎるパワーバランスというか、パワーポリティクスというかなんというか、ともあれそんな非現実的に白黒はっきりつけて「私は悪くない」か「私がぜんぶ悪い」的な話になる。いや、いまはさすがにそこまで極端に他人におしりを向ける趣味はないのだけれど、それでもこの悲しき発達障害者の中に弱っちいエゴというかパーソナリティがあってそれがこんなふうに白と黒というか、さっき書いたような「覇権か屈服か」的な子どもじみたカテゴリーに森羅万象を分けてしまうところがあるのかなあ、と思う。

でも、手前味噌・自画自賛もはなはだしいとも思うけれどそれでも眼前に広がる他者・外界との関係においていまはそれでもすこしばかりは寛容に・マイルドになれてきたかなあ、とは思っている。それが実現できているとするならばそれは(またこの話か、と思われそうだが)たぶんにぼくが英語学習をはじめて、そして英会話教室やDiscordといったところで英語で他者と実地に・ヒリヒリする関係性をとおしてかかわり合うことができてきたからかなと思っている。あるいはそれに加えて、自助グループやZoomミーティングで揉まれる経験を経られたこともあって自分のパーソナリティというかコアにあるエゴ(自己の芯となる存在)を鍛えてそれなりに強い・タフなものに仕上げられたからかな、と。だから、いまは「手打ち」の作法をそれなりに心得ていて他者に頭を下げる方法をわきまえているつもりである。ニルヴァーナ太宰治的な「全面謝罪」「完全なる屈服」を選ぶのではなく、ぼくは自分なりに謝れる(もちろん、これまた主観的というかそれこそ独善的なものの見方に過ぎず実践できていないと言われればそれまでだが。ニルヴァーナや太宰に関してもこんな杜撰きわまりない議論ではなくもっと繊細に語る必要がある)。

実は、ここでもうひとくさり「吐き出したい」こととしてこのぼく自身における「主人と奴隷」的な価値観・美学というものがある(言いたいことはおわかりと思う。きわめてエッチな話だ)。だが、なんだか冷静に考えればそうした話題はそれこそ「傷つける」「繊細すぎる」話であって、だから公にすべきではないだろう。LINEかリアルか自分のベッドルームでひそかにわきまえてやれ、という話にもなるはずだ。それにいまは、ほんとうにこの程度でへたばるとはヘナチョコだなと我ながらあきれるけれど、実は5連勤のあとということもあって疲れ果てており休養も必要なのだった。いま、ぼくはこの世界のグレーゾーンというか白も黒もない灰色もしくは多色の世界を見られているような、そんな気がする。これはでも、見方を変えれば別のかたちで世界がその「不条理」な実相を差し出した……という話でもあるようだ。サルトルや、それこそ太宰治(はちがうかな)が示したように。