さらっと読んだ程度の印象しか持ちえていないのでもっと読み込まなければならないことをことわりつつ、それでも現段階での印象を書くならばぼくはこの心のこもった・体当たりの1冊を好む。本書によれば、著者の鈴木大介はかつて彼の父親が俗に言うネット右翼のイデオロギーに染まり、弱者への配慮を欠いた差別的な言動が散見されるようになったことにショックを受けたのだそうだ。その父親が亡くなったあとも、彼はその事実に直面・対峙することがなかなかできなかった。しかし、本を執筆する過程で彼はいったいその父親がなぜネット右翼になってしまったのか、そして彼はいったい・そもそもどんな人だったのかその人となりに迫ろうと試みる。著者はこの執筆をとおして父と和解を図ろうとしているのだとぼくは読んだ。彼らの意見はとても隔たったものであったとはいえ。
読みながら、著者のファンになってしまったぼく自身がいることを感じた。とても強く勇敢な、そして包括的な心を持つ著者の前のめりに体当たりを試みていく姿勢に惹かれたからだ。著者は父を、対立する(そしてある意味ではひどくバカげてもいる)見解を持つネット右翼だからといって責めたり嘲笑したりしない。あきらめることもない。この本はしたがって2つの側面から読める。1つは著者のパーソナルな「喪の仕事」「グリーフワーク」(大げさか?)的な1冊。それこそポール・オースターの仕事なんかをぼくは想起してしまう。もう1つの側面は、この分断が否応なしに進む世界にそれでもなおパートナーシップをあきらめないためにアドバイスを処方箋として書くことだ。
ひとまず読み終わり、その後しばしTwitterのタイムラインを見やる。やはりというべきか、そこではさまざまなオンラインでの戦いに明け暮れ、相手への想像力を欠いた言葉を矢継ぎ早に並べ立てる人たちがいることを再確認させられる。彼らは認知がゆがんでいて、だから強い・狂信的な偏見に染まっていて気づく由もないのだろう。いやもちろん、ぼくだって同じ穴のムジナである。どうやってふたたびぼくたちは不協和音を乗り越えてパートナーシップを築けるだろうか。そんなことを考えさせてくれる好個の書と映る。
ぼく自身の経験について思い至る。いま、ぼくは左翼思想の側に立っているんだろうなと思う。平和が好きで護憲派に属し、他にもこの国のことや世界情勢について左翼と呼ばれる人たちと意見が合う。だが、そうしてリベラルとシンクロナイズする意見を持っているとはいえ、もし彼らの意見がファナティック(狂信的)であるとするなら「切る」覚悟はある。同等の人間として、さまざまな人たちのライフヒストリーを貴重なものとして扱いたいと思う。そして尊厳についても。こういうのも「お花畑」とか言われちゃったりするんだろうか。