著者のデヴォン・プライス自身も実は発達障害者なのだそうだ。当事者ならでは……と書くのはもちろんきわめて安直だが、それでもそうしたバックグラウンドを知ると深みが増すようにも感じられる。著者は(ちなみに彼はトランスジェンダーで、もともとは女性として生まれ落ちたのだそうだ)さまざまなきわめて極端なステレオタイプ・イメージがどんなにわれわれの発達障害に対するバイアスを彩り、補強し続けているかを暴き立てる。われわれ、とぼくは書く。ぼくだって発達障害当事者でありながら知る由もなかったこと、知るべきだったことがまだまだあることを知り汗顔の至りを感じたのも事実だ。たとえば発達障害者は一般的に「天才」「孤高」であり、かつ「奇人」としても表象される。すばらしい才能に秀でており、そして学校や職場で持ち前の能力を活かせば活躍できるし、活躍している先人たちもいる(だからがんばれ)というように。
彼は発達障害の概念を2つのタイプに分ける。男性型と女性型だ(ぼくは日本語訳で読んでいるので、これはぜひオリジナルの英語版を参照してみたいと思った。読み切るなんてとうていできっこないにせよ、正確な言葉だけは知っておきたい)。とても興味深い。私見では、彼は男性型ASD(発達障害)をとても強力な概念であり、さまざまなメディアが流布するキャッチーでポップ過ぎるバイアス(偏見・思い込み)によって彩られ毒されたものと書いていると思う。つまり、ありがちな独りぼっちの世捨て人か天才か奇人。そうしたドラマは、ぼくはかじった程度でしか知らないが『グッド・ドクター名医の条件』や『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が挙げられうる。いや、どちらもすこぶる面白いし発達障害を知る上で欠かせないテクストではあると思うにせよ。
ぼくの話をすれば、ぼく自身はインターネット上でぼくなりの発達障害ライフ(あるいは「ライフウィズ発達障害」だろうか)を公開し続けている。そんな振る舞いを通して、言いたいのはどうぼくが世界をこのとてもへんてこりんなエゴを通して体感しているかといったことだ。だが、ご存知のとおりぼくは男性でありしたがってどう女性の発達障害者が困難や生きづらさとぶつかり、福祉ともつながれず孤立する危険性をはらんでいるのかついつい見過ごしてしまう。もっとこの本については書きたいことがあるが、だがいまは黙って虚心坦懐に読み進めて学んでいったほうがいいと見た。
午後になり、職場でいまのジョブコーチとぼくは再会してミーティングを開いた。そこで職場のことを話し合う。さいきんあった(何日か前の、まだ記憶に新しい)トラブルについて話したかったのだけど、ひょんなことからぼくが話した断酒会のことに強い関心を示してくださったのでその話もしてしまった。それに加えて英会話教室の話も少しばかりしてしまい、終わってみれば盛りだくさんの内容となった。とてもいい方だな、と思った。無限の優しさを感じられる方だと思ったのだった。