跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/20 BGM: Radiohead - High and Dry

今日は遅番だった。今朝、WhatsAppで九州地方に住む畏友とあれこれやり取りを交わす。主なトピックは2つで1つはさいきん行われた兵庫県知事選についてだったが、これについては語ると長くなるので割愛したい。もう1つはぼくがつねづね英語学習者として関心を抱き続けている日本の英語教育の環境についてで、ぼくが今年読んで実に大いに学ばせてもらうところ多かった佐々木テレサ・福島青史『英語ヒエラルキー』の話をして、ぼく自身の感想をつづって彼とシェアさせてもらった。この日記でも過去に書きつづったことがあるが、あらためて書くなら日本において英語を学ぶことでたんなる語学のスキルを身につける(だけ)のことを超えて「グローバル人材」なるものにならねばならない、グローバル化に追いつかないといけないとあせるプレッシャーがどうぼくたちの自信喪失につながりうるか(これも聞きかじった話でしかないが、英語は日本語話者にとってはそれこそもっともむずかしい言語と言われているそうだ。そうでなくとも時間をかけてコツコツ学ばねばならない語学は、その性質上困難や伸び悩みと向き合う過程だって要請されるだろう)。

これもまたトーシロのぼくの無責任な憶測になってしまうが(したがってお叱りの言葉をお待ちしたい)、そんな内面における「グローバル人材にならねば」「グローバル化が必須なのだ」というプレッシャーに追い詰められることがどこかで別のかたちで「日本に住むのに日本語を喋れない外国人がそもそもおかしい」といったたぐいの排他的な感情(もっといえば差別?)につながりうるのかなとも考えてしまう。もちろん「日本語なんてローカル言語より英語が大事なのだ」という意見だって極論なわけで、要は語学のスキルと自尊感情が直結してしまわないように日本人たるぼくならぼくが自分の自尊心を誇りつつ、同時に相手を理解・許容できる懐の深さが大事なのかなと思う……と、あっさり書いてしまっているがもちろんぼくだってどこかで「差別心」「英語コンプレックス(劣等感)」を無自覚のうちに持て余していることはフェアを期するために書いておきたい。「ガイジン」への非現実的なあこがれや、あるいはその帰結として日本人について過小評価してしまう自分がいることを、汗顔の至りで書いておく。その友だちが言うには、これから学校でも会社でも外国人(移民)があたりまえの時代になるとのことでそれはぼくたちが拒絶しようが必須の「時代の波」ではないかとのことだった。ぼくも同じ予測を立てるが、ならばなにができるだろうか。

今朝はそんなやり取りの他には、訃報に触れたことで谷川俊太郎の詩集選を携帯していたのでそれを読み返す。思えば、彼に触発されてぼくもずいぶんヘッタクソな詩を書きなぐったりしたっけ……とこれまた小っ恥ずかしくなる。まあ、そんなこともあるのだった。書けば書くほど、さいしょは「こんな詩でいいのならぼくだって書ける」とどこかでナメてかかっていた自分も文字どおり「襟を正し」、ヨイショではなく心の底から「実に達意というか、チャーミングで詩的でポップな日本語を書く方だ」と畏敬の念が湧いてくるのを感じさせられたことを思い出す。いや、いまだってもちろんそうで、谷川はそれこそ日本語という言語の持ちうる肥沃さ・豊満さを拡大再生産させたと言っても過言ではないのではないか。少なくとも谷川はぼくにとっては狭義の域におけるおとなしい吟遊詩人ではなくポール・マッカートニーばりのポップスターだった。そんなことを思った。あらためて合掌したい。

この日記でもこれまで折に触れて書いてきたが、この冬の時期(とくに年末年始)は職場でにっちもさっちもいかなくなったトラウマがよみがえってくる。さいきんだってエラいことがあった(公開日記という性格上、ぼくが一方的に会社や同僚の方の批判・悪口を書くのはそれこそフェアではないし身バレももちろんまずい。だからこれ以上くわしくは書かない)。身体、あるいは無意識に刻み込まれたそうしたトラウマまみれ・呑んだくれで命からがらな目にまで遭った日々が染みついているようでもあって、だから悲しみや絶望をひしひしといまでもなお感じたりもする。世界から消え去りたいなあ、と思ってしまったり……なんだか安部公房の小説みたいな話だけど。そんなことを持て余し、夜にLINEグループで友だちに向けて毒を吐いてしまった。すぐさま友だちが返信を書いてくれて、なんでも書き出してラクになりなさい、と薦めてくれた。実にありがたい話だ。

ただ、この悲痛な心理的な痛み、まだ癒えていない内面の膿んだ傷口をどう取り扱い、トラウマに満ちた思い出と距離を起きつつ癒やしていけばいいのかがわからない。いまは、たぶん相手はぼくのことを理解しようとか思っていないかもしれないにしても(いや、これこそ自意識の病というか暗黒面に堕ちる話になるが、ぼくだって相手をどこまで理解しようとして生きているかあやしいものだ)、なんにせよぼくは相手の誤解に耐えつつ相手を尊重したいと思っている。相手を無理やり変えるなんてことがそれこそ無理筋である以上、ぼくが融和していくということしかできないから。でも、なんだかぜんぶ時間のムダというか徒労というか、それこそシジフォスの苦役のような話でもあるように思えてくる。こんな気分にはエリオット・スミスニック・ドレイク、もしくはモグワイの音楽が似合うと思う。そんな陰鬱で、怒りすら湧かないカラッケツの気分の日だってあるのだった。