いまであっても、ぼくは自分の中の「ヤマカン」を信じる(そして「愛して」さえいる)。そのカンとはつまりこれまでこんなスットコドッコイな人生を過ごしてきて経験せざるをえなかったいろんなできごと・いざこざによって鍛えられたものである。言い換えれば、ぼくが賢いとするならばそれはつまりそんなできごとによってそれこそ「不可抗力」で鍛えられたからであって、先天的に「ギフテッド」「タレント(才能)」があったからではこれっぽっちもありえないと自覚する。才能なんて、ぼくの中にはない。あるわけがない。また、こんな物議を醸す状況においてはこんなあまのじゃくな性格は公にそうしたとことんひねくれた意見をぼくに言うようけしかけるので剣呑である。上に書いたようなケースのとおりだ。
ならばぼくはあんなシチュエーションにおいてはじたばたあがいて自分自身の意見を言うのを控えて、「折れる」べきだったのか(たぶんあれ以上抗弁してもけっきょくアホな・子どもじみた「言い訳」「屁理屈」と受け取られるのが関の山だったと思うから)。自分がいかに正しいか示すべきだったのか……いや、それもちがう。そんなことをあれこれ考えていて、こんなことわざを思いついた。「正しさは麻薬だ」。つまり、「正しさ(英語で言えば『コレクトネス』)」という概念は注意してかからないとやけどするというのが骨子である。それは内部に依存性の物質を備えているとも思うからだ。ぼくが正しかったと言っても、もっと別の・もっといい言い方があっただろう、とも。
少なくともぼくがもう1つ、上に書いたことについて言えそうなことがある。ぼくが自分の意見をつたなくともそのボスに言えたのはたぶん「この」活動、つまり毎日毎日英語を学び続けて自分の意見を外・公に、他人に向けて具体的に・アクティブに開示し続けているということかと思う。ぼくは、英語が日本語より論理的だという意見に与したいとは思わない。だが、ぼくにとって英語の豊かな概念の網目の中でいろんなことをあれこれ考えることはぼくのロジカル・シンキングを鍛えたとは言えるかなと思う。いや、実際のところぼくはとてもでたらめで不条理な男なのだけれど。
今日の仕事が終わり、イオンの中にある歯科医院を訪れて歯の治療をしてもらう(そこは日曜日でも営業しているのだった)。その後帰宅して、夕食を摂りデイヴィッド・チャーマーズ『リアリティ+』の英語版のペーパーバックを読もうとしたが、昼間の仕事の疲れもあり早々に力尽きてしまった。そういうこともあるのだった。