ぼくはロープー(つまりプロフェッショナル)の批評家・書評家ではないのでこの作品の政治性やもっと広く言えば有効性について「斬る」ことなどできない。現代における重要なメッセージや教訓についてなら、皮肉でもなんでもなくもっと的確で詳細な解説を書ける人はゴロゴロいるはずで、ぼくなんか足元にも及ばない。ぼくにできることはただ、この作品を「超」がつくほどパーソナルな皮膚感覚・生理感覚(もっと言えば、1人の名もなき葦としての「ヤマ勘」)に基づいて読むことくらいだ。だからたぶんに我田引水や誤読をはらんだ、なんら「真っ当」で「真面目」な読みにはなりっこない。だがしかし、この発達障害者のストレンジャー(それこそ、学校では「エイリアン」「ばい菌」ですらあった)から見て上述したような「愛」と「憎悪」について気づけたこと・見出せたことは文字どおり収穫だった。そこから、考えはもっと派生してこれから書くことを思うに至ったのだった。
ぼくなりに粗暴に整理すれば、「憎悪」は一方ではその性格上誰かを明確に・暴力的に拒絶し、その感情において同じ「憎悪」を持つ人を仲間と見なすと思っている(つまり「敵/味方あるいは仲間・同志」と言えばいいか)。一方では「愛」とはそうした対立・拒絶を超えてぼくたちを束ねて1つにする偉大なファクターとなる。少なくともぼくの理解・認識ではそうだ。この作品の読みについてはどうだろうか。やや迂回するが、最初ぼくはこの作品の空気・ムードがとても「単一」「モノトーン」(それこそ大昔の白黒テレビやクラシックな映画で映される映像さながら)のように思われたのだった。味気ない、それこそ主人公たちが食べる食事のように。だが、その主人公のウィンストン・スミスが愛を見つけ出しロマンスに没入していくところから(ただ、フェアを期するならこの作品の女性描写は男のぼくから見てもあまりにも「男臭い」とも思われたが)、カラーというか色彩美を得るようにも思われた。それこそが「愛」の力なのだろう。しかし、ならば最後の最後、それこそそのウィンストンが究極・絶対的な「愛」を見出すところでぼくは絶望的な気分になってしまうのだろうか。「ネタバレ」は慎みたいが、たぶんそれは「コントロール(もっと言えば『洗脳』)」の果ての、私的領域がついに公的な価値観・美学によって蹂躙された果ての境地だからなのかもしれない。
閑話休題(?)。またしてもたわけたことを無責任極まりなく野放図に書いてしまうが、言っておきたいこととして今回の読みではぼく自身の中にふと思いついたあるアイデア、つまり残存するがそれまで特に気にも留めることなくはっきり言葉にする機会もなかった記憶のかけらについて思い至ることとなった。というのはぼくが10代のころ、たしかにこんな『1984』にも比肩する「モノトーン」な光景というか、なんら希望のかけらもない荒涼とした光景を学校における教室の中でうんざりするほど見させられたなと思ったのである。その当時、どうして公的な場で「トレンディ」なものを好きであると言わなければならないのかわからず、無理してぼくもドリームズ・カム・トゥルーやB'zやTMNなんかを「一般教養」かなんかのつもりで「履修」したりしたなあ、と(当時は日記なんか書いちゃいなかったけれど)。もちろん、日本は民主主義の国である。でも、そんな国というかシステムの下であってもこんなたわけたことを考えるのをやめられないのが悲しき性である。俗に言う「全体主義」は、もしかしたら「憎悪」ではなくそれこそ「愛」の理想で、ぼくたちを束ねて1つに保とうとするかもしれない。そこではそれこそ、ぼくたちを見つめ続けている「ビッグ・ブラザー」の視線を「恐怖」ではなく「慈愛」をはらんだものとして自然に受け入れてしまう可能性だってあるのかなあ、と。
「見えないブラザーが 保護者のようにキミを見る」(核P-MODEL「Big Brother」)