さて、ぼくの場合はどうなのかと考えてみる。読者よ(そう、そこのあなたである)、ぼくはあなたから見てどう映るだろうか。少なくともぼくは自分のことを根っから「よくわかんないアホのスットコドッコイ」だと思っていて、それにむしろ居心地の良さというか愛らしささえ感じている。少なくとも学生時代のことを振り返ってみてもぼくは教科書にしても何度も何度も舐めるように読み、でもそれでも読み飛ばしてしまい結局授業中に失態を数え切れないほどさらしてしまい失笑を買ったりすることも日常茶飯事だったのである。なので、現実の前に敗北を喫することとなった。まだ発達障害のこともとんとわかっちゃいなかった時期のことだ(だが、村上春樹を読むにあたってだけはそんなコンチキなぼくであっても何時間でも飽きることなく読みふけり・没入できたのであった)。
中には「冗談は顔だけにしろ。早稲田を出たんじゃないか」と言われるかもしれない。そうした言葉から言いたいことはわかる(いかにぼくが発達障害者であるとはいっても、その程度の文脈ならかろうじて読める)。でも、ならばぼくだって言わせてもらいたい。どの大学からどう賢さを推し量ればいいのかぼくにはさっぱりわからない。賢さが出身高校・出身大学で決まるなんて、端的に信じがたいというか「マジで?」な話としか思えないのだ。いや、これはしらじらしい美辞麗句・社交辞令のつもりなんてサラサラなくて「ガチンコで」「本音で」言っている(だからこそ「たちが悪い」とか「カマトト」と思われる危険も考えた上で言っている)。ぼくの中のリアルな感覚・肌に張り付いた感覚に照らし合わせても、日常生活でいちいち「おたく、出身大学はどこですか?」なんて訊いたりあるいは訊かれたりすることなんてありえないしな、と思ってしまうのだ。少なくともぼくより賢い人はいる。ゴマンといる。過去にお世話になったジョブコーチ、ぼくが愛した女性、上に書いた女友だち、などなど。
そんなことをつらつら考えているとこんなことを思いついてしまった(たぶんにさいきん読んだマイケル・サンデルの本か、あるいはそれこそ「クレバー」で「リベラル」とかなんとか目されていてたぶん現在の「知性」をつかさどるとも目されている人たちのポストを目にしてしまったからだろう)。世の中にはそうして、賢さこそがたったひとつ・単一の美しい概念であり(なんともはや)それが尊厳や人間的価値を定めかねないとまで言いつのる人もいたりする。いや、彼らの意見はもっと掘り下げて直接に、それこそガチンコで確認しないとわからない。でも、ぼくはそんな意見がありうるとしたらそれこそそれらに対しては「がんばってください!」としか言いようがないのだった。アホで結構コケコッコーである。
仕事を終え、夜になり毎週木曜恒例のZoomミーティングで友だちと会う。今日はフリートークの日ということでいろんなことを話す。アメリカ合衆国で行われた選挙の結果とそれから推測しうる世界情勢のゆくえや、そこから個々人ができそうなこととして世界の潮流についていくためにどう主要言語である英語を学ぶか。ぼくのことを言えば、いまからさしあたってできそうなことと言えばつまりいろんなことを学び続け、ペースをくずさず日々をていねいに生きることかなあ、となんとも面白くもありがたくもない凡庸きわまりない結論となってしまう(これに関しても軟式globeのパーク・マンサーばりに「そうだよアホだよ」と居直るしかない)。そして、そこから学んだことを日々の中で活かして人と対話を重ねることだ。いや、わかっている。ぼくは名無しの権兵衛というか弱虫というか、パスカル的に言えば「葦」である。でも、この日記ではあえて政治的な分析・評論は(できっこないのだから)控えてこのガンコで無知な日本人の発達障害者から、このリアリティについて日々少しずつ考え続けていけたらいいかなあ、と思う。それがぼくができる活動だろう、と。