跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/06 BGM: Radiohead - Where I End and You Begin

今日は休日だった。今朝は返却期限が近づいていて読む気が失せてしまった本を何冊か図書館にて返却し、そこで何冊か本を借りる。松浦寿輝『名誉と恍惚』やジャック・デリダ『他者の単一言語使用』などを借り、あと1冊なににしようかとあれこれ見繕っていたところ山形浩生によるジョージ・オーウェル『一九八四』の新訳があったのでそれも「いの一番」の勢いで借りることにした。その後イオンまで行き、さっそく『一九八四』新訳をレディオヘッドオウテカなんかを聴きつつ読み始める。予期していたとおり、さすがは山形浩生の新訳は読みやすい(いや、厳密に原語と比較対照したり従来の訳と読み比べしたわけではないとしても)。まだ最初のパートしか読めなかったのだが(あの有名な、主人公のウィンストンが自由の意義を2+2=4と表現・表明することの中に見出すところだ)、新訳に誘われてひと時俗に言う「ディストピア」の風景に染まってしまい、あれこれ考えさせられてしまった。

むろん言うまでもないことだが、まだなんらこの作品に関して不充分な読みゆえコメントなど書けない(し、あるいは書くべきでもない)。だが、スットコドッコイだからなのか発達障害ゆえのそそっかしさゆえなのか、ここでさっそく疑問が湧いて出るのを禁じ得ずまたそれを秘めておくこともできない体たらくなので書いてしまう。そもそも、いったいどうしてウィンストンが秘密裏に、個人的な日記を書き始めたのかそのことが興味を惹く。別の言い方をすれば、その書く活動とは彼にとってどんな意味合いがあるのだろうか。いろんな読み方ができるだろうが、ある意味ではそれは彼に内在する繊細な領域(テリトリー)を守るためにぜんたいを管理している当局に抵抗する試みなのかもしれない。あるいは過去の日々を注意深く振り返る試みなのかな、とも思う(とりわけ、世界がこのように悪夢的に変容する「前」を蘇らせようとする試みなのか)。

別の繊細な領域の話をすると、この作品は著名な(悪名高いとも言える)用語を持つ。つまり「ニュースピーク」というもので、政府当局によって暴力的に定められたさまざまな単純過ぎる造語のことだ。それらは伝統的な・うまみのある言語たちを粗暴に簡素化された、したがって単一的な意味しか持ち得ない言葉へとやせ細らせて無味乾燥なものにしてしまう(と、ぼくは受け取っている)。とてもまったいらで味わいのない言葉へと。むずかしい理屈を並べれば言葉とはそれを用いて思念・考えを他人に伝達することで、「公共性」のあるものへと成長させる。その意味では道具的な役割を持つ。だが、言葉は同時に個人の実存・実感を構成し個々の精神のありようを決めかねないほど深く深く「根付いて」いるとも言えるのではないか。なら、この作品のこうしたことがらはそれこそそんな個人の実感と公共性の関係を射抜いているのだろうか。興味津々である。いや、もちろんこうしたことは勝手な・我田引水の読みのきわみではあるのだけれど。

午後になり、ランチを済ませてしばしお昼寝。その後、4時くらいになってアメリカの大統領選の結果を知る。その後WhatsAppやDiscordで、友だちとこの件についてあれこれ議論。どっち側を指示するにせよ、この結果を重く受け止めねばならないとあらためて思う(これはさいきん行われた衆議院選挙にも言えることだ)。というのは、これがフェアに行われた選挙によって表象・代弁された「民意」つまり「民衆の総意」だからだ。それが民主主義の考え方のかなめだろう(ぼくは民主主義を支持しているので。少なくともエリートもしくはテクノクラートがなんでもかんでも勝手に決める政治よりはベターだと思う)。その後、『一九八四』をちまちま読む。

夜になり、断酒会に行く。そこで個人的な経験談をグループのメンバーに打ち明ける。言葉になっていなかった、曖昧模糊とした考え・気分が言葉によってコモンな(つまり「公の」)ものになるのを感じた。これこそがこの厳しい現実を生き抜くための安全弁なのかなあ、とか思う。その後、ホームに帰りTwitterで議論したりうだうだしたり、Discordのアープラのサーバで『一九八四』の現時点での感想を書き殴ったりうたた寝したりして1日を閉じた。