サンデルの実に明快な分析に舌を巻きつつ、再読になるのだが(もちろん、ここで書かれた分析が2024年の時代状況ではなく少し前の状況を分析した、つまりいくぶんか「時代遅れ」「古びた」ものであることを差っ引いても)アメリカや世界の政治を生々しく切り取ったものとしてあらためて多くを学ぶ。サンデルの姿勢をぼくが得た印象から実におおざっぱにまとめれば、政治におけるスタンスの相違が敵対していてもまずは耳を傾け、あたうるかぎり理解することを試みる態度と呼ぶべきなのかなと思った。当てずっぽうではあるが、それが当たっているとするならどうなるだろうか。ぼくの場合、そんな感じでぼく自身から見て「反対側」「対極」に位置する人たちになんとか――完全な「議論」を通した「融和」など望みようがないとは思えども――歩み寄るにはどうしたらいいか。敵としてそうした人たちをやみくもにレッテル貼りするのでもなく、味方と認めるべくこっち側で勝手に作り上げた「寛容」な態度を以て融和政策を押し付けて息苦しい思いをさせるのでもなく……もちろん、こんなことはそれこそケースバイケースで臨機応変に対策・対応を算出するしかないんかなと思ったりした(ということを考えつつ、それこそ叶うならサンデルの「爪の垢を煎じて飲む」必要があるのかなあ、とも……)。
それにしても、Discordやその他のネットのサイトに触れたり実際に仕事をしたり生活したりしていると、あらためてぼくが暮らす世界はいったいどうなるんかなとも思ってしまう(特にアメリカの大統領選の行方も気になったりする。どちらの陣営が勝つにせよ、「その後」すんなり事態がおさまるとは思えない)。いや、もちろんぼくはさっきも書いたがただの一介のトーシロでしかない。普通の日本の住民である。Twitterを開き、そこでまたしてもいろんな「小競り合い」というか「つばぜり合い」というか、キーボードやスマートフォンなどのデバイスを駆使してファイターたちがあれこれやり合っているのを見る。彼らには彼らの内的必然性があってそうしているのだろう。それを冷笑する趣味もない。皮肉でもなく、そうして毅然と外部に怒りを表明し「否」を突きつける姿勢は貴重でもあるだろう。でも、ぼくは「それはそれとして」自分の生き方としては自分のペースを守って怒りに巻き込まれないようにするほうが得策と信じる。あるいは、ぼくの中にある邪悪などす黒い心をそのままダダ漏れにしないように、とも。いや、これこそおろかでナイーブな姿勢と一笑に付されるかもしれない。だが、もうぼくもアラフィフなので若作りはしたくない。
昼下がりになり、カップ焼きそばを食べたりしてランチを済ませその後しばし午睡。その後、午前中にイオンの中にある未来屋書店で買い求めたハン・ガンの『すべての、白いものたちの』の文庫版を少しばかり読む。こんな田舎町にもハン・ガンの文庫本が入ってきたのかとびっくりしてしまったが、言うまでもなくこれはノーベル文学賞の波及力だろう。図書館で以前に借りて読んだことがあったが、こんかいもこの実に詩的で繊細な逸品に胸打たれて美しい世界を堪能する。ゼーバルト『アウステルリッツ』を筆頭にいろんなノスタルジックな作品を思い浮かべ、あれこれ自分自身の思い出を振り返ってしまう。
夜になり、英会話教室に通う。そこでまたおもしろい・あたたかいひと時を楽しむ。今日は動詞「want」の使い方について学び、そこから英作文を作ったりゲームに興じたりした。レッスンが終わったあとに部屋に戻り、DiscordやLINEであれこれおしゃべり。ことに、AIと美術について談義にふける。そんなこんなで1日が終わった。