跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/03 BGM: Flare a.k.a. Ken Ishii - Cycling Round (Keigo Oyamada Mix)

今日は休日だった。今朝、約束されていた時間に英語研究会のオフラインミーティングを楽しむ。目下ぼくたちはそこにおいて、イギリスの作家ロアルド・ダールの愛らしい名作『マチルダは小さな大天才』を少しずつ読み進めている(今日は、むずかしい暗算をこなすことでいかに主人公の少女マチルダが聡明であるか家族に見せつける章を読み込んだ)。ぼくは実を言うと、この研究会はここ1年か2年在籍している程度の新参者にすぎないのだけれど(いやもっとかな? コロナ禍などあってこうした会を実施できなかった時期もあったとは記憶するが……)、だがそれでも会の雰囲気・空気になじめてきている自分を見出し楽しみも感じられるようになってきていると自負する。お世辞・社交辞令ではなく。ふだんはこうした英語研究会の活動ではいろんなニュースサイトや新聞記事の、とりわけ文化面や政治面の英語の記事を精読・輪読していく活動をしている(たとえば、目下行われているアメリカの選挙戦や他の国のニュースが主となる)。だが今日の輪読においては、実に啓発されるところも多くタメになった。この会の輪読を通して、あまりにも啓発されたせいで『マチルダは小さな大天才』の原著(英語のペーパーバックだ)をついに買ってしまったりしたくらいである。

午後になり、完全に時間が空いてしまったので完全休養・静養に徹することにして昼食を摂ったあとはしばし午睡にふける。その後、部屋にいても行き詰まると思いイオンまで行ってそこでカバンの中に入れっぱになっていた佐々木テレサ・福島青史『英語ヒエラルキー』を少しばかり再読する(いや、なんら前もって情報もなくタイトルに惹かれて買ってしまった本なのだけどこの本も実にタメになる。今年もそろそろ終わるので「今年の収穫」「ベストテン」の候補には入れておきたい)。突如として、こんな可能性を思いつく。私見ではぼくには、概して言語はおしなべてある種矛盾した性格をはらむと思える。一方では言語は道具としての性質を持っていて人と人をつなぐ橋渡し役になりうる。ある種それはハンマー(もしくは金づち)みたいな物体というか、使いこなせる道具にすぎない。道具だからいかにでも切り離して客観視できる。でも他方では言語はアイデンティティを構成する一要素となって人の根っこをも形成する。だから言語は切り離せない・切り離しようがないものである(いや単純な話として、日本語や英語を使えなくなったぼく自身――少なくともそうした言語を学んだり使ったりすることで自分を形づくってきたぼく自身――をぼくは想像できない)。

ぼくにとっては英語を学ぶことはこうして自分の思い・意見(愚見ではあろうが)を表明するツールの1つの使い方・作法を学ぶことでもある。だが、認めなければならないこととしてじっさい英語を外部にどんどん使いこなしてそんなつたない英語で自分を表現すればするほど――いや、冗談でもなく謙遜でもなくぼくの英語はいまだひどいものであるにせよ――ぼくはそうした英語の使用(濫用?)がぼく自身の心というかパーソナリティというかなんというか、こうして文字を打つ内面にはたらきかけてぼく自身を変えていくことを自覚する。まぎれもなくこのぼくの中には「英語人格」とでも呼ぶべきものがあるとまで口走りたくなる。その英語人格を観察していくと、たとえば開かれた・ポジティブな会話を楽しみそれこそジョークまで編み出したりしてしまう自分がいるとも。英語はぼくを、そうしてぼくによって使用されることによって使用者のこのぼくを逆説的に呑み込んでいるのかなあ、とかなんとか。ごめんなさい、むずかしい話になってしまった。

ここまで考えて煮詰まってしまったので終わってしまう(だがもちろん、この意見が戯言・愚見の可能性をぼくは捨てきれない。間違った考え方でありうることも見ておきたい)。言い換えればある意味では、一般論としていろんな道具とは使用者によって愛用されることでその使う人の心に作用するとも言えるわけで、そう考えると上に書いたことは「両立」「融合」できる考え方なのかなとも思ったりしたのだった。たとえばぼくは、こんなデジタルな時代にあっても紙のメモパッドと安価なフリクションペンを使う(ケアレスミスからくる書き損じが激しすぎるのである)。そうしてカキカキ・消し消しして肉体的に筆を動かす所作がぼくを形づくってきたのかな……ああ、今日はなんだか長々とうっとうしく書きすぎてしまった。今日はこれにて。