いやもちろん、そのとなりに座られたり近づかれたりした女性は愛なんてぼくに感じていないだろう(初対面でそんなことはあるわけがない。『スプートニクの恋人』じゃあるまいし)。恋人がいる可能性は充分ありうるし、いなかったとしても少なくとも独り身だろうがなんだろうが彼女はーーいまのような時代、その女性を言い表すに当たって「彼女」なんて代名詞でいいのかどうか迷ったりもしているのだがーーその人なりの人生を自由闊達に生きる権利があることは言うまでもない。ここにいるくたびれた男なんて端的に・文字どおり「お呼びでない」「あんた誰?」だろう。だが、こんなことを理性的・客観的・冷笑的にあれこれ吟味しても、それでも割り切れない・混乱した感情の残りカスが残ってしまいそれに振り回されてヤキモキ(?)してしまっているのが現実なのだった。
子どもの頃、それこそありとあらゆる女性の級友たち・クラスメイトたちに嫌われる「洗礼」を浴びて「菌が伝染る」とまで言われて虫けら・ゴミムシにされてしまった過去があるぼくとしては、いまだにそんな感じで異性と「バウンダリー」「距離」を保てずに近づくか(それこそ「ストーカー」になるか)、あるいはよそよそしくなるかで「自然に」なれないので困っている。まず認めたいのは、ぼくはヘテロセクシュアルであるということだ(つまり異性愛者で「彼」を代名詞とするということ。これが「当然のこと」「自明の理」ではなくなってきた時代になったのは発達障害者のぼくとしては実におもしろい)。そして、俗に言う・通俗的な「女性性」「フェミニン」なエッセンスに惹かれてしまう傾向があることも認めたい。いや、こんなことを大っぴらに書くことにこんなに青筋を立ててしまうのはそれこそぼくが過去にこんな愛という感情をそれこそ燃えないゴミとして捨てるか何でも屋に売るかするかして「世捨て人」的に生きたかったからである。そして、無性愛者(アセクシャル)になりたいとまで夢見たりして……ああ。無性愛者の苦悩も知らず・知る気になろうともせず、いい気なものであった。この不明を恥じるしかない。
といったことをあれこれ思い返し……過去、この心のなかにたしかにある種の妄念として抱いていたのは、クラフトワーク的な語彙を使えば「マン・マシーン(人間機械)」になりたい、それによってどんなファクターにも左右されず・惑わされない存在になりたいという夢だった。そうすればこのわけのわからない感情に混乱すること・苦悩さえすることなくよりスムースに生きられる(この観点から、それこそ愛なんてただの人類の生み出した偉大なる妄想というか、少なくともぼくの感情の中に起きる恋愛感情なんてバグとして処理できるとまで夢見たりしたのだった)。いや、もちろんそんなことできるわけもなかった。ぼくは昨日も書いたがただの弱っちいヘタレのフニャフニャした男でしかなく、そんな涙ぐましい試行錯誤も妄想・白昼夢のたぐいでしかなかったことをついに認めて白旗を上げることとなる。
いまはぼくは、メッキが剥げたあとのみっともなさよりはこっちのほうがマシだろうと自分の弱さをさらすことを選んでいる。でも、それでもチャーミングな女性にドギマギする自分を隠せないのだった。いくつになってもあまえんぼ、とは間寛平の名台詞だがならばこれはなんになるのか。いまからでもタフガイ・ナイスガイになるべく修行を重ねて強くなるべきか……あるいはなるべくあきらめない態度・向上心だけでも持っておくべきか(レディオヘッドの曲が表現するような「防弾仕様の人間」を夢見る男として生きていったらいいのか)。いや、この弱さを認めてあきらめて居直って、弱さを積極的に晒す生き方を選ぶべきか。それこそ……いや太宰治は結構強い人・毅然とした人のようにぼくには見えるので、田中小実昌なんかそんな先達になりうるのかなあ、とかなんとか。
すったもんだあり夜になり、Twitterで知り合った女友だち(畏友)の薦めでいままで読まず嫌いだったマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読み始める。なかなか啓発される。こうして多種多様に分岐していく考え方を学びたい。