あるいはこれは発達障害者というより、俗称される・巷で言われるところの「繊細さん」「HSP」ということであって感覚・神経が過敏すぎるというかたんに働きすぎるからなのかなあ、と思う(でも、だからといってそれがぼくが他人よりもすぐれていたり劣っていたりする証拠にはなりえないことは言うまでもない)。そうした事実が、ぼくの精神・魂がピュア(純粋無垢)であるなんてことを言い表すわけでもなかろうとも思う(余談になるが、なんでもいいがたとえばぼくが好むジャズやロック、ソウル・ミュージックなどの名曲群を聴いていると俗っぽさや汚れたと見なされる精神と清らかさとは同居しうるものであること、矛盾せず調和すら保って融合し1つの高次な精神を生み出しうることを学べる。あるいは文学においても中上健次や村上春樹から学べるのはそうした「聖と俗」の融合体としての深みのある精神のありようだと信じる)。でも、こんなふうに繊細さを持ち合わせてしまい弱さに悩まされ、生きづらささえ感じさせられて苦しめられているぼくとしてはどうやったらこの感情(本能や無意識の次元にまでおよぶ)と肉体のバランスをたもち、スムースに生きられるだろうかと苦悩してしまったりもするのだった。
上に書いたように、ぼくの神経は(いい悪いはべつとして、まあありていに言えば)ひどく働きすぎ・感じすぎるので日常生活を器用に送れないのだった。このことについて、恥じてしまい(それこそ「万死に値する」とまで苦悩し)強くなりたい、より「鈍感力」を身につけたいとむなしい・涙ぐましい努力すら重ねたことを思い出す。そのころはまだいまほど多様性が幅を利かせる時代ではなく、男らしさの呪縛にぼく自身染まっていた・とらわれていたところもあったので強くならねば・タフにならねば・普通にならねば(もっと言えば「マッチョにならねば」)とも思っていたりもしたのだった。でもタフになろうとか鈍感になろうとかどれほど思っても(なれるならとっくの昔になっていたはずで、だから結局そんな才能はなかったのだが)、それでも傷ついたり混乱したりすると痛みを感じる。感じてしまい、その痛み自体を否定することもできない(してもならない)ので、耐えるしかないのだった……あとはもう、その痛みが鍛えてくれるとか磨いてくれるとか思うしかない。そして、そんなふうにぼく自身考え方を変えることでなんとかやり過ごし、発達障害それ自体は動かしようのない事実だという現実に直面して生きていくしかないのである。
夜になり、なんとかそんな痛手からも立ち直れるかどうかと感じ始めたころ、前もって予定されていたZoomのミーティングに参加する。今回のミーティングではある友だちがごみ問題や環境問題についてプレゼンテーションを行ってくださった。すばらしい、理路整然としたミーティングで学ばされるところは多かったのだけれど、上に書いたようなことがあったせいですでに精神的にクタクタになってしまっていて、結局置き物のように黙ったまま他の方の話を聞くしかなかった。お恥ずかしい。他の方の寛大さに助けられ、なんとか楽しい時間を過ごせた。そのミーティングもふくめ、そんなこんなで酒を断ち英会話を学んだりあれこれ動くうちに自分のまわりの人間関係もずいぶん豊かになったものだと思った。
忘れてました! ハッピーハロウィン。