単純な生活

Life goes on brah!

2024/10/23 BGM: Spandau Ballet - True

さいきんになって、日本で広く読まれているらしい弘兼憲史のビッグネーム漫画『島耕作』シリーズが話題になっている。というのはすでにTwitterで議論がかまびすしいあの内容(沖縄をめぐる「フェイク」……といって悪ければ「真偽があやふやな内容」を垂れ流したといわれる件)についてである。そうしたことがらを「表現の自由」で保証するべきか、あるいはそうした「フェイク」(なのかどうか、ぼくはこの件はまったくノーマークだったのでいますぐはなんとも言えないが)を「フィクション」として尊重すべきなのか。裏返せば、そうした物議を醸す内容に抗議することの正当性をそちら側から照射する必要もあろう。この件については出版社・弘兼憲史側も対処に動いたというが、この件ははからずもぼくにあらためて「フィクションの持つ潜在的な可能性・危険性」を教えてくれる。

今日はそんな話題について、Twitterであれこれ暇だった時間に議論を始めてしまった。そして「フィクションとリアリティの関係はどうあるべきか」「どのようにしてフィクションと距離を置くべきか(距離さえ置くことができたならばフィクションは野放しにしてもいいのか)」なんて話題で盛り上がった。たとえば、弘兼憲史はこの件については謝罪する意思をあきらかにしており、伝聞(つまり取材・裏取りとしてははなはだ不十分で、見ようによっては「杜撰」ですらあった)ことを明確にしているようだ。ならばぼくは、この不十分さを指摘することで『島耕作』の描き手・弘兼憲史の良識・モラルを批判することに一定の正当性・有効性を見る。イヤミではなく、こんかいのことをそうした視点から批判することは重要だ。

だが、ならば一方で「では、『充分な』『裏取り』がなされていてこんかいのような『フェイク』的な(つまり陰謀論的・誇大妄想的な)内容が書かれていてそれが一部の読者を刺激したらどうなるんだろう?」とも思う。たとえばぼくが陰謀論やネットにおける都市伝説(ありがちな、とあるファーストフード店のハンバーガーはミミズ肉を使っている、的な話だ)を取材したりしなかったりして小説を書いたら、それは議論に値するだろうか。あるいは表現の自由の俎上に乗せてもらえる権利を持つだろうか。

実を言うと、このことはいまだぼくは考えあぐねていてスッキリした結論を自分の中で出せていない。稀代のストーリーテラー語り部、あるいは嘘つき)である村上春樹にそれこそ首ったけで10代を過ごした身として、一般的にウェルメイドなフィクションというものはぼくたちを癒したりあるいは絆を深めたりする素晴らしい力がありうることを認める。それこそジョン・レノンの往年の名曲「イマジン」が理想によって人々を結びつけたり、あるいはおしなべて国歌というものがそうした機能を果たすように……いや、「イマジン」や国歌はフィクションじゃないかもしれないな。うむ、再考が必要だとあらためて考えてしまう情けなさだ。

では、どうやってそんなフィクションに内包されている魔性の力を扱うべきだろうか。それはもしかしたらそれこそ「冒涜的」な内容を持つかもしれないのに。表現の自由によって守りうるものだろうか。あるいは、そうした問題をはらむ表現(どのようにして、誰がそれが「問題性がある」と決めるのか?)は修正されるべきだろうか……だんだんわけがわからなくなってきた。こんなていたらくなので、ぼくはなんの回答も出せない。あるユーザーが「こうしたことに鑑みて、読者への配慮として『これはフィクションです』的なことを『あらためて』銘記しておくのはどうか」「フィクションであることをもっとわかりやすく示す方法はないだろうか」といったことを問うていた。でも、これに賛同するとしてもこんな疑問がぼくの脳裏には浮かぶ。「もし無邪気な・ナイーブな読者が意図的に悪乗りして、『フェイクネスゆえに・虚偽の内容ゆえにこの作品を愛する』と居直ったらどうしたらいいんだろう?」という……。