跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/10/21 BGM: 高野寛 - 泡の魔術

発達障害とは「病気」なのだろうか。そして、それは「治る」のか、「治すべき」ものなのだろうか。今日、Twitterで面白い投稿を見かけてしまったのでついついこうした質問について考えさせられざるをえなかった(その投稿を読むと、投稿者のやり方を虚心坦懐に守れば発達障害は「完治」するのだとか!)。でも、もしそうだとしたら「誰」がそんなふうにして発達障害こそが悪しき現象であり、したがって「病気」と呼ばれなければならないなんて定義付けをできるのだろうか。もちろん発達障害が定義からいって相対的にある種の「異常」「希少」な脳の特質・特徴を示しうることはわかる。なので、ある種の人たちはノーマル(普通・正常)になりたいとか近づきたいとか思う傾向があり、あるいはそれこそ定型発達者の境地をこそ目指してしまったりもするようだ。でも、こんなことを念のため・確認のために訊きたいとも思ってしまう。「誰」が発達障害という障害をいいとか悪いとかでぶった切り・判断できるのだろう。言い換えれば、そんな発達障害を「治す」の定義がわからない。治療して発達障害を根絶させる必要ってあるのだろうか。

少なくとも、ぼくから見て思うのは発達障害に向き合うにはやり方・態度が2通りあるということだ。1つは先にも書いたような、文字どおり発達障害を「治す」ことを目指すやり方だろう(まったくもってぼくはその「治す」の意味がなんだかよくわからないので、したがって推測で書くしかないだが。「アルコール依存症」や「男性であること」や「村上春樹の愛読者」であることを「治す」ととらえるのがどこか無意味でスットコドッコイに聞こえるのと同じだ)。もう1つはその「治す」ことをあきらめてしまい、発達障害というものと肚をくくって・腰を据えて「一生涯」続く特徴・障害(ダジャレではない)として向き合う覚悟を固めることだ。個人的には後者の態度を採ろうと考えている。それは発達障害をむしろユニークさの現れ、貴重な現象とさえ捉えようと努力する態度とも言える。愛すべき障害、というように(もちろん、それでも自分のケアレスミスなんかにつまづいたら呪わしく思うこともたしかではあるが)。

脳から発達障害を「治す」ことにより「消去」「除去」することを目指すべきなのだろうか。あるいは市民権・価値を見出して適切な居場所を与えるべきなのか。ぼくが貴重なものとして発達障害と向き合う・ケアすることに決めて、そこから生まれるさまざまなトラブルにもめげずにいまもその態度を貫いている理由とはぼくが端的に「この」特性、「この」人格のユニークな価値を否定したいとは露ほども思わないからである(「この」というのは、たとえばこうして文を書ける要素のことを示している)。それゆえに、映画『マトリックス』の著名なキャラクターであるモーフィアスのような人が眼前に現れて、なんらかの薬を飲むことで発達障害を消すか消さないか選ぶことが可能だと選択する自由を与えてくれたならぼくはたぶん彼に「そんなふうにぼくに選ばせてくれるような神々しい権限があなたにあるんですか」と問うだろう。どう答えるのだろうか。

言うまでもないことだが、上にこうして書いてきたことはあくまで「個人の見解」「ぼくの判断から生まれた回答」だ。皆さんはそれぞれの見解・回答を持つ自由がある(もしくはこうした問い・思考実験を端的にバカバカしく時間のムダですらあり、むしろ有害でもあると見なしてもらってもかまわない)。ぼくはただ、自分の旗幟を示すことにつとめてこの件にかんする自分の態度を書いておきたかった。ある意味では、ぼくの態度は「あえて」「意図的に」発達障害の前に屈服さえする態度でもあるだろう。ぼくを取り巻く運命的要素の1つを、「あえて」受容し受け容れてその制限の中でそれでもなお自由・柔軟に生きることを目指す態度として。でも、それは可能でありそれこそがオトナの態度でもあると信じる。神から、もしくは別の次元に存在するなにかから与えられた賜物としての発達障害を、時には文句をつけつつ是認してぼくはこれからも生きていく。