単純な生活

Life goes on brah!

2024/10/20 BGM: Nick Drake - Pink Moon

今日は休みだった。今朝、これまで実に夢中になって読みふけってしまっていた邵丹(ショウ・タン)『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』を読み終える。この本は日本文学について、とりわけ村上春樹藤本和子といった書き手の日本語の文体がどのような海外の文学の翻訳によって練り上げられてきたか問うものだ。たとえば、藤本和子によるリチャード・ブローティガンの翻訳(春樹ももちろん読みふけっただろう)もしくはカート・ヴォネガットSF小説について、それらが春樹や高橋源一郎といった後進の作家にどのような影響を及ぼしたか。日本語圏で暮らすぼくは、それゆえに日本人の一読者として村上春樹にこれまで接してきたのだけど率直に(あるいは「雑駁に」)整理させてもらえば彼の文体はとても「英語的」に映る。言い換えれば彼の文体はどんな他の作家とも微妙に、しかし本質的に異なる。ロジカル、つまり過度に論理的であり洗練されていて、悪く言えば気取り・気障さが鼻につかなくもない。それはさまざまな英語圏のテクスト、およびその日本語訳が往々にして持ちがちな特徴のようにぼくには映る。

邵丹は、春樹の日本語の文体の特徴(クセ)についてぼくが上述したブローティガンヴォネガットといった作家からどう影響されてきたか、それを指摘していくことで説明を試みる。ここから浮かび上がってくるのは、春樹が自分自身をきわめて律儀に律し・研鑽を重ねて自分の文体を磨き上げてきたという事実だ(そう、あの実にユニークな、ゆえにぼく自身も含めて模倣者をたくさん生み出すこととなった「僕」語りの文体だ)。それは実は、多彩・多種多様な読書体験から来たものでありえたのかと、その分析に舌を巻いてしまう。同時にぼくは単純な事実についていま一度思い知る必要があると思った。春樹は努力の末に、長期間のキャリアを持続させてきた一因でもありえただろうあの翻訳調の端正なスタイルを生み出したのであって、つまりは勤勉な努力家ではあっただろうにせよ俗に言う「天才」ではなくまぐれあたりを生み出したわけでも「ぜったいに」ありえなかったのだった。

その後、またこの話題かと思われそうだがTwitter村上春樹にかんする議論についつい首を突っ込み、参加してしまう。話題は昨日記したようにどのようにしてさまざまな古典文学・現代文学ゾーニングするかというものだ。川端康成大江健三郎村上春樹もそういった作家群に含まれよう。そうした作家たちの文学はなるほど、ソフトなポルノ的な性質をはらんだものであると「も」読めるだろう(あるいは、端的に若い読者にとって毒気が強すぎて危険だとも)。ぼく自身の意見を言えば、私人あるいは私的な企業(コマーシャルな企業)が責任を明確にしてゾーニングするぶんには許せるという立場だ(のんきすぎる意見かもしれないが。だが、もちろんぼく自身もそうしたゾーニングを拒否してそのド読者・企業とは付き合わない自由が保証されれば、という前提が成り立てばの話である)。裏返せば、図書館などの「公的機関」や「巨大な権威(マスメディアなど)」がそんな「ゾーニング」をするのであれば「待った」と言いたい。なんにせよ、実におもしろい議論だった。

しかし、1つ疑問が残る……というのは、そんな感じでゾーニングについて考えていくと「え? 春樹にもゾーニングが必要なの?」という話にもなってくる。『羊をめぐる冒険』や『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』などに「ゾーニング」……もしそれにイエスと言うなら、それに付随して「いったい誰がそうして『ゾーニング』する主体となるのか」「なぜそんな『ゾーニング』をしなければならないのか」といったわかりきったことを再確認する必要も出てくるのではないか。文学作品を安いポルノグラフィーから区分できるのか(すべきなのか。すべきというなら「誰が」「どう」判断するのか)、といったこともふくめて。そんなこんなで夜になり、春樹の初期作品(『中国行きのスロウ・ボート』だった)を読み返しつつ、このことを独りでなおも考え込んでしまった。