ぼくにとって、その意味では村上春樹の作品群(エッセイやインタビューも含まれる)は常に、いまもってなおどのようにしてこの言葉、この態度を以て他人と関わって・話しかけて外部世界に「コミット(干渉)」していけばいいのか教えてくれていると思う。日本ではシニカルな、つまり上から目線で一方的に暴言で冷水を浴びせてなにか言った気になっているたぐいの批評家や読者たちが、春樹の文学に対してあまりにも浮世離れした・スノビズムの極致であり外部から「デタッチメント(孤絶)」した境地を描いていると批判・論難する。たぶん彼らには、春樹は自分の世界で実に内向的・自閉的にジャズや猫や女性たちやアメリカ文学とたわむれている作家のようにしか見えないのだろう。だが、ぼくからすれば春樹はつねに(つまり、「いま」も)教え続けてくれていると映る。この残酷な世界にどのようにして篤実・誠実に向き合い、勇気を以てコミットしていけばいいのか。
それゆえに、そんな春樹の試行錯誤(トライアル・アンド・エラー)を追いかけていままでやってきた。ある意味でぼくにとって春樹はとてもある意味不器用でダサい作家ですらあった。というのは、春樹がひとえに――陳腐な物言いをあえてするなら――失敗を恐れなかったからだ(ぼくにとって無惨な出来の「フロップ」だった『多崎つくる』のことを思い出す)。ぼくは春樹といっしょに歩いてきて、大人として成長して自分の意見・見解を他人に開陳できるようになるまで育ってきたのだと自負する。いや、これも冷笑されるかな。
むろん、どうやって世界にコミットしていき自分を誇示するか、自分自身の尊厳・固有性を主張するかといった種の話はいつの世でも普遍的なものとしてあり続けたものであり、陳腐ですらあるだろう。日本文学にかぎって振り返ってみても、大江健三郎や安部公房や三島由紀夫といった書き手は作風こそバラバラであれ、そうしたことを訴えてきたのではなかったか。どのようにして剥き身の自分を主張し・晒すか。なら、ぼくは春樹の作品を貫く別の要素の魅力について語りたいとも思う。つまり、春樹が日本語で編んできた文体についてだ。それはチャーミングで明晰で、ぼくにとってミネラルウォーターの如き透明性と滋養さえもたらす「おいしい」ものであった。いや、これはマジメに書いている。『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』を読み返しつつ、そんなことを考えている。
