すでに書いてきたように、ぼくにとって春樹はまずだいいちに実に明晰・明快な論理的文体を持つ書き手として映る。身も蓋もなく言ってしまえば、彼の言葉はあきれるほどわかりやすい(ゆえに、言い方を変えればあいまいさの中で「深さ」「余韻」を味わわせる芸は持っていないとも言える。いや、かなり「雑」すぎる話だが)。春樹自身が公言してきたように、彼はアメリカ文学の古典的なカリスマたち(たとえばスコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーティといった作家たち)から影響を受けてきたようだ。ゆえに彼はそうした作家たちのマーベラスな、典雅な英語から多くを学んだことは容易に推測できる(あるいはそういった作家たちの日本語訳からも?)。当時、春樹がデビューしたばかりの文学シーン・文壇のことなんてぼくにこれっぽっちもわかるわけがないが、それでもこのスタイルのあり方は斬新だったのではないか。革命的とも言えたのではないだろうか。いや、異論を積極的に歓待したい。
かつて、ぼくがそれこそ作家志望のアマチュアとして作家になりたがっていて、それで指南書・マニュアルを読みあさっていたころ(とはいえ、結局そこは浅学非才の悲しさで結局なんにもものにならなかった)、春樹の作品はどの道を行けばいいか照らし出してくれたとも思う。いつも書いているが、ぼくは発達障害者でたぶんそのせいか人と根本的に「脳みそのつくり」「思考回路」が異なるので(ユニークすぎる、とも言えるのかもしれない)、春樹のシステマティックな文体はぼくの思考回路に寄り添うものとして映った。
春樹のファンであることを、いまとなっては隠したいとは思わない。ただ、時にはぼくは春樹に率直に違和感を訴え、批判することもある(このことにかんして、言語化された理由を付す必要はないと思う。「ファンだから」批判するのだ)。ぼくは春樹を敬愛するし、畏怖すら感じる。ストイックでシステマティックな生活態度・文体に近づきたいとあがきさえする。こんかい、春樹がノーベル文学賞を逸した(と言われている)ことは残念だ。だが、Twitterでの熱心な議論を読ませてもらい(なかには敬意を欠いた・まるっきり「放言」「空談」に堕したものもあれど)、春樹がいまだ大事な作家であることをあらためて思い知った。彼に敬意を払い、そして批判したいと思う。
その意味では春樹の作品はR.E.M.やブルース・スプリングスティーンの音楽にぼくにとって似ていると言えるのかもしれなかった。充分に洗練されて、ウェルメイドで、ポリティカルでもあって……この次元の議論をするなら大江健三郎のほうがもっと生真面目に政治にコミットしてきて、もっとアクチュアルだったことを認める。春樹はポップスターすぎるのだ……なんだかダラダラ書きなぐってしまった。もっと考えて、煮詰めたことを書きたい。
それはそうと、やっと絵を公表していいとの許可をいただけた。ぼくの最初の絵がこうして描き上がったのだった!
