その経験のあと、ちょうどぼくはその村上春樹が当時リリースしてまだまだ間がなかった大ベストセラー『ノルウェイの森』が文庫に収録されて刊行されることを知った。それをさっそく買い求めて読み始め、すぐさまぼくは春樹の実に洗練された、とてもユニークな世界にハマってしまったのだった。それは実に、どんな作家からもかけ離れた境地を示しているように感じられた(まだぼくは若造過ぎて不勉強で、だからブローティガンもヴォネガットも知っているわけがなかった)。『ノルウェイの森』をはじめとする春樹の小説から感じられたのは論理的で繊細な筆致がとてもこのぼくにとって徹底して明快・明晰な境地を見せておりあいまいなところが微塵もなかったことだ。そして、彼の作品世界に配置されている(いや、もっと「気持ち悪く」ハルキ・ワールドと呼びたくなるが)アイテムがとてもアトラクティブでもあったことも忘れてはならない。春樹を経由しなければぼくはジャズの名盤だってトルーマン・カポーティの小説だってもっと手に取るのが遅くなったかもしれなかった。
もちろん、幸か不幸かぼくはいまはただのすれっからしのおっさん(あるいはスケベでアナーキーなクソジジイ)だ。そんなぼくは春樹がそんなふうな「突然変異体」「大天才」ではありえないことを知っている。当然のことで、彼の作品を注意深く読めばそこにさまざまな過去の日本の文化・文学の伝統の残響がいくらでも聞き取れる。いろんな要素・細部がスープのごとく溶かし込まれた上で春樹の世界ができていることを悟れるだろう。ぼくは代表作程度しか読めていないニワカであることを自白したうえで雑に整理してしまうが、でも春樹の世界は佐藤幹夫や久居つばきといった書き手が指摘してきたような、あの三島由紀夫との(明・あるいは暗の)影響関係がありうる。大江健三郎や村上龍や中上健次にしても、もちろん春樹がコピーしたとかそんなわかりやすすぎる影響関係ではないだろうにしても、ライバルとしてにらみながら自身の作風形成に勤しんできたとぼくは見ている。いや、これはさっきも書いたがかなり「雑な」語りになっているのだけれど。
ハン・ガンのノーベル文学賞受賞から時が過ぎ、なぜか(いったいぜんたい、どういうつもりなのかとんとわからないが)ここに来て春樹がいかに「キモい」「気持ち悪い」作家であるかさまざまなユーザーが指摘し始めるという「バックラッシュ」が見られる。いや、意地悪すぎる言い方かもしれないが少なくともぼくにはまさにこれは「反動」としか思えない。ただ、彼らの意見に耳を傾け吟味したうえでぼくも意見を練り上げたいにしろ彼らの「キモい」という言い方もわかる気がする。たしかに『ノルウェイの森』をあのころ・16の頃まだなんにも男女のこと・世界のことなんてわかっちゃいなかった時期のテンションでいまさら読めるとも思えない(いま読めばなんだかたんに小難しくて青臭い、辛気臭い小説とさえ思うかもしれない)。でも、そんな「春樹がキモい」と思うのはけっこうとしてもそうした皮膚感覚・生理感覚をどう内在する次元の本能から言葉に練り上げていくかも重要ではないか。論理的に・明晰に。少なくとも『風の歌を聴け』で春樹が教えてくれたレッスンの1つが、そうした感情・本能の言語化から生まれる「コミュニケーション」「伝達」がぼくたちの文明そのものさえの礎になりうるということとぼくは思っている。どうだろうか。
今日帰宅後、絵にシグネチャーを書いた。これで完成したのだった!
