ぼく自身の旗幟を鮮明にするなら、いまなおぼくは春樹の作品を愛し続けている。あるいは、春樹が生み出し続けてきた世界を愛し続けていてそれにいまだ「かぶれて」いるところがあると自認せざるをえないこれからも彼の新作小説は発売日には買ってしまうんだろうなと思う(『街とその不確かな壁』も当日に買い求めてしまったし)。そして、この畏敬の念を隠すべきとも恥ずべきことともまったく思っていない。『ノルウェイの森』はいまも・これからも個人的に思い出深き本としてあり続け生や死の意味を照らし出す本になるんだろうなと思う。しかしそれは春樹がぼくにとって神だとか文句のつけようのない存在だとかそんなことを意味するのではない。春樹は言うなればぼくにとっては、おかしな表現だが父親役かあるいはメンターだ。ぼくのリアルな父親やブラーのメンバー、マッシブ・アタックのメンバーやポール・オースターがそうであるように、その意見や作風について異論・違和感があれば忌憚なく公にするだろう。でも、それと敬意は矛盾しないはずだ。
ぼくの意見を言えば、彼の作品を読むとそこに登場する女性のキャラクターについてこう思ってしまう。彼女たちは概してセンシティブな男の主人公に対して、彼を導くとても無垢で聖女的で慈悲深き存在であり続けている(そう「ありすぎて」いるとさえ思う)。彼女たちが妄執・邪念的な発想に取り憑かれていて主人公とセックスにふける時でさえ、そうした邪な欲に振り回されているときでさえその聖女的な要素が浮き彫りになるように設定されている、とも思ってしまう。いや、もっと注意深く読み込みこうした考えについてクリシェ(決まり文句・紋切り型)にはまり込まないようにしないといけないのはわかっている。だから即刻そうするつもりだ。でも、なんにせよ春樹がこんなぼくをいろんな意味においてここまで育ててくれたことまで否定はできない。春樹は日本の読者にとってパイオニアだったはずだ(むろん、何度も言うが功罪は――とりわけ「罪」は――これから問われないといけない)。彼がいなかったら別の著者が『ニューヨーカー』といったマガジンに作品を発表するのを待たないといけなかったはずだ。
今日は休みで、今朝は市役所にグループホームの副管理者の方と一緒にある手続きをしに行く。その後、もらっていた給料を管理者たちに預けてそして描いている絵について手続きを話合う。午後、時間が空いていたので昼寝をした後に絵をついに仕上げてしまった。タイトルは「莫妄想(まくもうぞう)」とした。今月終わりになんらかのかたちでお見せできるはずだ。
