だが、こんなケースに遭遇すると(つまり、あらゆる女性がぼくに優しさ・親切さを示す場面に遭遇してしまうと)つねにぼくはとても複雑怪奇というか、もっと言えば居心地悪い思いにさいなまれてしまう。というのは、まあいつも飽きもせず書いていることではあるのだけれど子どものころにあらゆる女性のクラスメイトから嫌われまくったことが尾を引いているので、それがまだトラウマとして残っていてゆがんだ女性観(俗に言う「ミソジニスト」「女性嫌悪者」的な性格? )として残っているんだろうとしか思えないのだった。昨今、誰が発祥となって広められたかよく知らない「トラウマ(心的外傷)」という言葉がたやすく使われていてぼくもついついこのターム(専門用語)を使っちゃったりする。この感情やこのぼくのひねくれた性格が確実にそうした「トラウマ」の影響下にあることはたしかだ。いまの女友だち(「対等に」付き合える人たち)が優しさや慈悲・慈愛をぼくに示せば示すほど、ぼくは妄想で頭がはち切れんばかりにふくらんでいる、実に穢らわしいただのイモであることを自覚してしまう。いや、これは大真面目に書いている。
思い出す……いま描いているぼくの絵のテーマはそんな「妄想」についてである。彼女がぼくの写メを見て、そもそもなんでそんなことがらをテーマにするのか訊いてくれたのでぼくは答えた。ぼくの心の中にはいまだ誰かが巣食っていて、その誰かが「普通になれ」「社会のルールを守れ」「従順であれ」とぼくに強いているからそんなふうに自虐的に自分の中から立ち上がるアイデアを悪しざまに言ってしまうのかもしれない、と(ところで、こうしたことをすべてぼくたちは「英語で」やり取りしているのだった)。それに答えて、彼女は言ってくれた。いまのような時代、ぼくたちはただぼくたちらしくあればいいのであって「普通」なんて気にする必要はない、と(他の人たちがたとえ口さがなく・冷酷にぼくたちを「異常」「アブノーマル」と言うにしても)。
そんなメッセージを読むと……ああ、なんとも世界は変わったものだと痛切に・心の底から思わざるを得ない。上にも書いたが、過去ぼくはこの世界の中でほんとうに独りぼっち・孤立無援の思いにさいなまれていたのだった。いや、両親はぼくをたいせつに育ててくれた。それを微塵も疑うつもりはない。だが、青春時代というか多感なアドレッセンスの時期をなんだか見捨てられた孤児になったような気分で生きたぼくとしてはそれこそこの急激な変化にクラクラしそうになる。当時、ぼくはどんな女性もぜったいぼくから逃げる・ぼくを嫌うとまで信じ込み、ゆえに愛という概念が近代人の妄想あるいは政治的なイデオロギーではないかとさえ疑った。誰も愛することがどういうことなのか教えてくれなかったし、仮に外から愛されたとしてもそれが愛であることをぼくの中で「発見」「悟る」までには時間を要した。なんだか、書いていて思う。アンビリバボーな話だ。
夜になり、毎週木曜恒例のZoomでのミーティングに参加してそこで友だちと語らう(今日はフリートークに興じた)。ある参加者の友だちが、彼の娘さんが安部公房の『砂の女』を学校の課題で読むように薦められたので誰か読んだことがあるかという話になり(ぼくは1度だけ読んだことがある)、そこから話が盛り上がる。その後、今年のノーベル文学賞受賞者が韓国の作家ハン・ガン(漢江)であることを知る。名前だけ知っていたが、読んだことはないのだった。我が身の不勉強ぶりにまさに赤面してしまいつつ、さっそく図書館で本の予約を入れることにした。
