年を取るとは、あるいは経験を積むとはどういうことなんだろう。経験値を高めてたくさんいろんなことをこなすことだろうか。若かりし頃ぼくはただの無知蒙昧で未熟な青二才でしかなかったが(あるいはだからこそ、だろうか)、クールで成熟した・落ち着いた大人になろうとあがいてあれこれ試行錯誤したことを思い出した。若さを謳歌するなんてことができず、なんでも知っている大人のフリをして気取ったりしたっけ。まあ、バカで若すぎる子だったと単純に言ってしまえばそうなるのだろう(そして、これはごく「よくある」「陳腐な」話、ありがちな「若気の至り」でもあろう)。思い出す。思えば教室で行われているくだらないおしゃべりにまったく入って行けず、孤独に苛まれてつらい思いをしたものだ(でも、ぼくはなぜ彼らがドリームズ・カム・トゥルーやB'zといった音楽を聴いて楽しめるかまったくわからなかったのだ。だからぼくはたった1人でオリジナル・ラブとか聴いたりしていた)。
そんな日々を思うといまはまさに隔世の感がある。世界が少しずつぼくにとって居心地のいい、多様性に満ちた進歩した世界になって楽しい時間を友だちとともに過ごせることを実感する。インターネットが(バラ色の事実ばかりではないにしても)たしかに世界をタイトにつないだせいでぼくはマイナーな話題も楽しめるようになった。ディーコン・ブルーやブルー・ナイルの音楽がどうすばらしいかを友だちとシェアしたり、などなど。アルコールの沼で溺れて文字どおり孤独で死にかけていた頃……その時はこれから40になるぼくがまだ英語をやり直すなんてことを予想できるわけもなかった。ああ。なにもかもがすでに終わってもう生きていくことが徒労だとさえ思っていた。野垂れ死にだ、もう終わりだと大真面目に信じていた。でも、時代は変わるのだった。
たしか今月10日だっただろうか。今年のノーベル文学賞受賞者がわかるという。ぼくはこれまでこの日記でもつねづね書いてきたが村上春樹を愛し、そしていまだリスペクト(畏敬)を持ち続けている。でも、今年も受賞はなかろうとも思っている(世界には彼と同じくらい優れている作家がたくさんいることもまたたしかだ)。この話題はでも、「箸休め」として付き合いたい。彼が獲ろうが獲るまいが、ぼくの中にあるこの畏敬の念は失われない。たんなる物語作家としてぼくを魅了してきたのみならず、小説やエッセイや発言などを通してどうこの自分自身を律してこの自分を構成する諸要素を守り抜けばいいか、そんなことを春樹さんは教えてくれたと思っている(この性格、自尊感情、趣味などなど)。その意味で、ぼくは彼が偉大な、マーベラスな教師・恩師の1人であると思う。あるいは、バーチャルな父親だろうとも。