この『マチルダは小さな大天才』はもっぱら子ども向けに書かれた小説と聞いている(つまり児童文学、というくくりで読むのが正確かもしれない)。だからなのか、英語は平たくてパッと見の印象では読みやすく簡単に読めるように「見える」。しかしそこはさすが名作の誉れ高い本作。注意深く1語1語を吟味するように心がけて読み進めていくと、あらゆる言葉が実に繊細に書かれ・配置されていることがわかる。今日はなんだかんだで5ページほど読むのが精一杯だった。イギリスの小説だけあって、実に英国の香りのする英語に困惑させられる。たとえば「フィルス(filth)」という言葉が出てきて、これはジェームズ・マカヴォイが出演する映画『フィルス』を1度観たことがあったので「警察(もっと正確に言えば『ポリ公』)」という意味なんだろうなとは思っていたが、もっと猥雑というか物議を醸すたぐいの意味もあるとか。1語1語がこうした深遠な意味をはらんでいるというのが面白い。
この作品を読めば読むほど、主人公の女の子であるとても利発な・怜悧な知性を持つ女の子マチルダに惹かれるのを感じる。見かけはただのちっちゃな女の子だが、内に強い根性を秘めた実に惚れ惚れしてしまう女の子だ。思い出したことがある。ぼくはなんの取り柄もない発達障害者の男でしかないのだが、子どものころぼくはこのマチルダと同じように本が好きな男の子だった。母が教えてくれたのは、保育園に通う子どもの頃ぼくは保育園の先生から「本の虫」として有名だったらしい。先生の部屋の本をあれこれめくって遊ぶ子だったとかなんだとか。他の子が野球だサッカーだとか外で遊んでいる時にそんなことをしていたのだそうだ。そんなこともあったのだなあ、と思った。
ぼくはいまだこの『マチルダは小さな大天才』を完読できていないが、彼女がその知性ゆえにつらい思いをしないといけない気持ちがわかるように思う。そして鋭い感受性を持ち大人たちの愚かしさを見抜く目を持っていることもそんなに愉快なものではないだろう。ぼくの子どもの頃はどうだっただろう。いやもちろん、『マチルダは小さな大天才』はフィクションなので実話と混同してしまってはいけない(実話とみまがうリアルな空気はあるにしても、そこは分けたほうがいいだろう)。読めるならもっとこの作品を日本語か英語で読み進め、そこから考えを深められたらと思った。
人生がどんなにシビアであっても、そんなシビアな状況を楽しく生き抜き相手をやりこめるタフさと知性が実は自分の中にある……そんなことをこの『マチルダは小さな大天才』は教えてくれるように思う。現実の不条理な攻撃に立ち向かえるだけの強さ、というのか。勝手な妄想だろうか。ともあれ、この愉快なストーリーをもっと読んでいきたいと思った。