とはいえ、恥を忍んで言えばカール・ハイドがいったいそうした曲の中でなにを歌っているのかこれっぽっちも理解できなかった。ただ、そうした曲におけるカール・ハイドの声(美声! 実にジェントルだ)は景色にフィットしていて心が落ち着く。神聖でかつ透明な空気感を堪能できたと思った。いや、こうした表現は人によっては「クサい」とか「大げさ」なんて話になるかもしれない。でも、たしかに日々のストレスに満ちた生活の中で知らず知らず傷つきくたびれ果てていた心が謎めいた・広大な世界とつながり癒されるようにも思った。
その後、山を降りてグループホームに帰宅してチャーハンを食べて昼食を済ませる。あらためて今日は(しなければならないことはいろいろあったにせよ、そうした疲れが溜まっていたこともあって)もうとくにこれといったことはしないでダラダラしようと思った。夕食までひたすらゴロゴロと過ごす。ただ、手は自然に日野啓三のエッセイや短編小説に手が伸び、パラパラとめくったりもしてしまう。そう言えば日野啓三のエッセイを読んだことでU2やブライアン・イーノの作品を堪能したりもしたなと思い出す。日野啓三のブリリアントなエッセイはいまだぼくにとって色褪せない「批評」としてある。彼の小説『光』を読もうかと思った。
夜になり、毎週木曜恒例のZoomミーティングに参加する。この季節における月の美しさやその月にまつわる伝承が主なミーティングでのプレゼンテーションのテーマで、とりわけここさいきんは「中秋の名月」「十三夜」「スーパームーン」などが気になる時期でもある。プレゼンターの方が、昔の人々がどのようにして月や星を愛でてきたかを教えて下さった。そして、「いま」どのようにそうした月や星が空で輝いており、そうした自然現象を堪能できるか。実に面白いプレゼンテーションだった。
その後、そうしたプレゼンテーションを聞かせてもらって「おしりに火がついた」ということなのか来週に控えているぼくの番のプレゼンテーションの草稿を書いてみようかと思い、あれこれ書き始める。ただ、これについて書くとなると(話題は前にも書いた語学に関するこまきときこのエッセイ漫画『つれづれ語学日記』を選んだのだけれど)大学生のころのことまでさかのぼることも必要かなと思い始めた。あの日々……大学では英文学を学ばせてもらうという実に「得難い」「ありがたい」環境にありながら親身に・真面目に勉強する気持ちなんてこれっぽっちも持たず、また持っていたとしても当時のぼくの英語なんてお粗末もいいところなので披露する気も起きないヘタレっぷりで、だからなんら自信なんてつくわけもなくそれどころか「もう生きる意味なんてないな」「人生に疲れた」なんて気分で過ごしていたのだった。
でも、「生きる意味」と書いてみて……いまならなんとなく(有効な答えではないにせよ、「とりあえず」の答えなら)わかりそうな気がする。生きることはぼくにとって前に進むこと、学ぶこと、成長することということになろうか。賢くなることで世界がもっとシンプルに、もっとクリアになる……ココ・シャネルの警句みたいな話だけど、こんな「クサい」ことをぼくは大真面目に信じる。