これは前にもこの日記でも書いたけれど、なんだか近未来もしくは現代のディストピア的な状況を描いた小説のように聞こえるかもしれないにせよ(いや、そうした作品はぜんぜん読まないのでいい例が浮かばないが……たとえばJ・G・バラード?)、つらつら考えていくとこんな話を思い出す。前にぼく自身の英語の先生が教えて下さったのが、いまの人は1日の生活についてすでに膨大な、頭がパンクしそうなほどの情報を受け取って生活しているという話だ(一説では江戸時代に生きた人の1年分の情報を現代人は1日で受け取っているとかいないとか)。さっきも書いたが、こうしたことについてもっとぼくはデータや証拠を押さえることで自説を固める必要がある。でも、ここまでの段階で聞いた話でもすでに推測として(邪推とも言えるが)こんなことが成り立つのではないか。こんな情報過多のバックグラウンドで生きる人たちがそれでも本を楽しむためにはもっと斬新な材料が必要となる、と。裏返せばそうしたインセンティブ(動機づけ)がないと、忙しくかつ情報過多でくたびれているさなかにわざわざ本を読んで頭をさらに使おうとは考えにくいのではないか。
ぼくは実を言えば、これまでアホみたいに本を読み込んできたことは認めるにせよ胸を張って「本好きだ」とはいまだ言えない。それどころか、どうしても読書会の空気には「アウェイ」を感じる。たぶんにぼくが奥手・内向的すぎるからであり、また乏しい情けない知識を「シェア」することにも恥じらいを感じたりもする。つまりはいまだ「ええカッコしい」なのかなあと恥じ入ってしまいもするのだった。でも、本がなければぼく自身これまでの人生確実に頭がおかしくなってとんでもないことをやらかしていたことは想像に難くない。本はその意味でぼくの悪友とも言える。少なくとも過去、クラスメイトとぜんぜん折り合えず友だちもできず独りぼっちで過ごしていて孤独が身体や心を蝕んでいたころ、本は世界を探検し未知を開拓するためのツールであった。読書は薬である。その信心・信念は不動のものとしてあり続ける。でも、頭がおかしいと言われるかもしれないが言いたいのは読書は危険な側面も多分に含んだ営みでありしたがってがんらい(いや、少なくともぼくにとっては)個人的な、もっと言えば秘匿すべき楽しみのたぐいでもあったということだ。いまだにぼくは谷崎潤一郎『痴人の愛』、ナボコフ『ロリータ』なんかにぞくぞくさせられている。
もちろん、公の場で本を語り合うこと・ディスカッションすることが大事だという意見それ自体までも否定するつもりはまったくもってない(そうした「公」に意見を表明するマナー・公共性を鍛えることと同時に個人の範疇における良心や危険ともされる想像力を鍛えることのあいだにある矛盾を受け容れること、それこそ読書の醍醐味とも言えるのではないか。いや、まったくもっていま0.3秒くらいで思いついた「思いつき」「でっち上げ」な意見になってしまうにせよ)。でも、このニュースを機に「読むこと」「読書」という営みを見つめ直す礎にしてはどうかなと思ったりもしたので、ぼく自身の正直な意見を書いておきたいと思った。