今朝、例によって英会話のZoomでのミーティングに参加しそこでディスカッションを英語で行う。今日はアルコールがもたらす・はぐくむ文化とぼくたち自身の生活について。ぼくは他の参加者の方々にこれまで9年間完全断酒をちまちま続けてきたことを明かした。そして、いわゆる「断酒会」に参加してそこで経験談を語る習慣を得たことについても話す。実を言うと過去、アルコールを断ってまだ間がなかったころこんな断酒がすばらしい達成でありうるなんて考えられなかった。ピンとこなかったというか、まだ酒に未練があったからなのかそれとも呑まれていた自分に対する恥が大きすぎたのか、情けないことに自分でもぜんぜんわからないがいずれにせよ胸を張って「断酒中です」と言えなかったのだった。でもいまなら、自分を誇れる(ただ、申し訳ないがそれでもときおり意識の片隅において「呑めたら」「酔ってた頃がなつかしい」と思ってしまうこともある。だから断酒会に通わせてもらい、語り続けているのである)。
そんな「ドリンキング・ライフ」「酔いどれ詩人気取りの日々」のこと以外に、今日は仕事中にぼくなりの人生劇場(ライフストーリー)が孕むさまざまなできごとについてあらためてつらつらと振り返ってしまった。たとえば、ぼくにとっていまなお象徴的なゴッドファーザーである村上春樹の文学との出会いがいつだったか。また、友だちがあるぼくの失態にキレてそれであわや絶交かというところまで行ったあとにそのぼくのしくじりから「こんなことになったのはぼくが『アスペルガー症候群』だからではないか(当時は発達障害はそういう名称だった)」と思い始め、その可能性についてあれこれ考えて……それも「はじまり」だろう。当時はしかしぼくは身の回りに同じ悩み・情報を共有できる仲間を持たず、たった1つの(冴えた?)手がかりと言えばここ日本でも広く読まれている書き手であるオリヴァー・サックスの『火星の人類学者』に登場する著名な自閉症(発達障害)の科学者であるテンプル・グランディンの逸話くらいだった。読んだことがなくしたがって恥知らずにも「盗用」「パクリ」を冒してしまうことになるが……それでもぼくはそうしたことがらを思い出すことでウラジミール・ナボコフが自伝に冠したタイトルに倣って『記憶よ、語れ』と自分自身に語りかけることが必要なんだろうと思う。
今日の仕事が終わり、Zoomで行われた友だちとのミーティングに参加する。そこで、食物アレルギーの話を教わりあれこれ語らう。が、それについて書くには残念ながらスペースがない。思えばこの毎週木曜日恒例の定期的ミーティングに参加するようになったのはいつだったかについても記憶はまわりはじめる。これもまたぼくがなし得た達成なのかな、とも思う(ともあれ、いつもありがとうございます)。