跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/09/09 BGM: Supercar - Free Your Soul

今日は遅番だった。今朝、イオンに行きフードコートであれこれ読書や考えごとに精を出すもまったくはかどらなくて往生する。なのであきらめて、気分転換にと思ってイオンの中の未来屋書店に赴くとそこで高橋源一郎が書いたムック『「書く」って、どんなこと?』を見つけたので買い求める。その後、フードコートに戻ってその本を読み始める。これはいわゆる1つの「アルター・エゴ(もう1つのエゴ・自分)」もしくは俗に言う「インナーチャイルド」について書かれたものなのだろうか、と(我ながらあきれるほど雑になるが)当てずっぽうで考える。言い換えればこの本を通じて、著者の高橋源一郎は書くことの謎・秘儀を説明せんとしていると受け取った。コントロールの効かない、まったくもって謎としか言いようのないなにかを。

薄っぺらいムックだったのでそんなに難儀せずに読めたのだけど、だがその中身は実に侮りがたし。読み終えたあと自分自身の書きもの(そう、ここさいきんあれこれ書いているぼく自身の「回想録」)について考える。実を言うと勇んで書きはじめたはいいものの、まだ最初の1行が出てこずに止まっているというのが情けない現状なのだった。いったい、どんな1行が自分を導いてくれて続く数行・もしかすると残り全部を導き出してくれるのか。高橋はこのムックを通じてこう誘いかけているように映る。書くことにおいて、そんなに考えすぎてはいけない。ただ上述したようなアルター・エゴにまかせて、その声に耳を傾けて積極的に語らせ・吐き出させなさいと。自在に、自動的に、この自覚できる「自分自身」をいっそのこと捨て去る覚悟で、そして無意識に任せて。少なくともこの本の中で、高橋はデビュー作『さようなら、ギャングたち』がそうした自動的な・自然体の「書く力」を発揮した産物として成り立ったと語っているように映る。それは彼自身の限界を超えて「奔流」として湧き出たものとしてさえ映る。

作家になりたい……いや、プロにはなれっこないにしてもともかくもなにかを書くことは続けたいと考えているヒヨッコとして、高橋の語っていることをぼくは重いアドバイスとして受け止める。ぼくの場合はたとえば、この日記を書くことを通して自分の中におそらく存在しうるもう1人の自分自身がいることを感じる。その自分自身が(オカルトめいた話になるが)自意識の能力の限界を超えてぼくの中にあるものを吐き出させる。そしてぼくがなにを考えているか意識の表層の下にあるものを見出させて、そういったものに思考を誘わせるのを感じる。それが「自己発見」とか「自分探し」とかいう作業につながりうるのだろう。

だけど容易に想像がつくように、自然体になって自分の思うものを自由自在に表現すること、そうしようと試みることは実に至難の業ではないだろうか。少なくともぼくの場合は、そうした作業をしようとすればこのリアルからぼく自身が隔離して自分の中に閉じ込めているものと向き合うべく壁というかバリアを壊し、その隠しているものである「反社会的なもの」「危険思想」と向かい合う必要がある。ぼくは回想録でそんなに反社会的なことを書くつもりはないが、ただ隠していたり忘れようとしてきたものと向かい合う必要があるかなとは考えている。最初のセンテンスの案をあれこれ考える。「これを書いている人は誰なんだろう。お前は何者なんだ。これを書いている……これを書くぼくを見守ってきた『きみ』に向けてぼくは書いている」、などなど(いや、こんな書き出しにどれだけニーズがあるか皆目わからないけれどあくまで1つの案です)。