今日は早番で、正午近く休憩時間になり海苔弁当を食べつつこんなことを考えた。ぼく自身の自伝を書くのはどうだろう、ということだ。いや、こんなことがどだい不可能・無理難題とわかってはいるのだけれどそれでも時にはこんな衝動を感じることだってある。もし書けたなら……書くとしたら、それこそあの日あの時あの場所で(と、小田和正の歌詞をついつい引用するが)はじまることになるだろう。古民家カフェのオーナーに誘われてそこで発達障害について話し合うミーティングを楽しませてもらうことになって、いざ行ってみたらいまのジョブコーチやその娘さん、いまも付き合いを続けさせてもらっている友だちとお会いできて……そうだ。そこからぼくの「マイ・ストーリー」が始まったのだ。あれはぼくが40歳のことだ。
いま、ぼくは49歳になるのだけれどなんだかこんな歳で人生を振り返るなんて早すぎると一笑に付されるかもしれない。もちろんまだまだやりたいことはある(ただ、あまりにも気分が不安定に変わりやすいので一貫した「ウィッシュリスト」「死ぬまでにしたいことリスト」をついに書けないでいる)。でも、これまで生きていてぼくが体得した真実の1つは「いつ死ぬかわからない」「人生は予測不可能」ということ。もしかしたら今日が人生最後の日かもしれない。5分後にすべてが終わるということだってまったくありえないとは言えない。ぼくはただの名もなき日本人、エッチなおっさんにすぎない。が、可能なら1つ個人的ななにかを残して去りたいなあ、とも思う。本能的な・原始的な動物の本能、というやつなんだろうか。
夜になり、まったくはかどらないエドワード・サイードの本(もちろんつまらないからではないです。為念)を脇において読みかけていた池澤夏樹『すばらしい新世界』を読み進める。2000年に刊行された(四半世紀前だ)この小説においてはまだTwitterやFacebook、LINEやWhatsAppも出てこない。言い換えれば、いまのようなインターネットが発達した社会が登場しない(その代わり登場人物たちは実にまめに「Eメール」を書いている)。それゆえの古くささはあるのだけれど、でもぼくはこの作品の空気(風土、と言うべきか)や深遠であたたかいメッセージを存分に満喫することができた。池澤夏樹は実に人間性において抜きん出た人なのだと思う。その鋭敏であたたかい眼は世界に注がれていて、あたかも星が地上を照らして人間の営みを明かすのと似ているのかな、と。池澤夏樹を尊敬するぼくとしては、したがってこの作品を愛する(ただ、それでもどっちかと言えばぼくの好みは村上春樹に戻ってしまうのだけど)。また『マシアス・ギリの失脚』を読み返すのもいいんだろうかとも思った。