でも、実にこんな罰当たりな性格のぼくなのだけど少なくとも1つだけぼくが信じられていることというのがある。というのは、嬉しいことがあろうが悲しいことがあろうが、どんなことがあろうが時間は過ぎるのだった(それをぼく自身、仕事を通して学んだせいか「グズグズ迷ってドツボにはまる」よりも「ダメ元でやる(犬も歩けば棒にあたる)」ことに自分なりに重きを置いて生きている)。10時になり仕事が始まったので、身体を動かして仕事に励む。指、足、髪の毛の1本1本。すると、仕事の初歩的なコツが身体を通してつかめてきたようでなんとか気持ちも上向いてきたようだ。仕事中、あまり映画のことなど真面目に考えたこともないぼくがそれでも愛好する映画を思い出す。『ロッキー』だ。あのシルヴェスター・スタローン主演の映画で、ロッキーは無敗・無双の完璧超人だったがゆえに偉大なのではなくむしろ自分との戦いに負けなかったから偉大だったのだ、とぼくは思っているのだった。
そしてついに仕事を終える。終業時間になったので、残業もないということなので帰らせてもらった。でも、実を言うと明日はビッグイベントが待ち受けている。隣町の病院に行くというものだ(ぼくは車を運転できない。発達障害ゆえの不器用さが仇となるからで、だからいつも公共機関を使うことになる。文字どおり1日がかりの作業となる)。書いた通り、そんなこんなであっという間に夜になる。残酷なような、慈悲深いような……まったく時とは。
思い出したことがある。今朝。他のZoomミーティングの参加者の方々がぼくになぜ英語を学ぶのか質問された。この種の質問にはいつもこんなシンプルな答えを返してしまう。この町の住民と世界の間の架け橋的な人になれたらいいな、というものだ(それはそうと、こんなに移民たちがこの市に住むようになった時代は「住民」という言葉の定義もゆらいでいるのを感じる。もとからこの町に住む日本人を「ネイティブ移民」と呼ぶべきか。それは失礼かな?)。話がそれたが、そんなだいそれた野望のためにやらなければならないことの1つはもっと英語や日本語の腕を磨くことだろう。でもなんにせよ、そんなふうに自分のやるべきことがわかるというのは幸せの感触がつかめているということの証左でもあるようで、それがとてもありがたい。酒に呑まれていたころはそれこそ毎日呑んだくれてなにもかも無為に過ごすのが関の山だったことを思い出す。