そのミーティングが終わったあと、いつものように空調が効いたイオンに行きそこで木曜に行う小規模なプレゼンテーションのための草稿を書く。草稿のソースとして、ぼくが英会話教室で目撃したことを1つ思い出して紹介したく思った。そして、この発表のために読み返していて相変わらず興味深いと舌を巻く本、刀祢館正明『英語が出来ません』を紹介することもできないかと思ったのだった。いや、ぼくがやっていることはただ記事や本を読むことである。この話題を語るにあたってはそれこそ実地でさまざまな人たちと「論じ合う」「語らう」努力、汗をかく作業が必須となろう。日本人の英語に対する強迫観念はどこから来ているのか、といったことなど。書きながら、草稿を完成させられるかもしれない手がかりを得られつつある。でも今週は隣町の歯医者にも行かないといけないし、この多忙がもとで身体を壊してしまったり心が病んでしまったりしたら目も当てられないのだった。
いま、主な話題として盛り込もうと思っているのはこんなことだ。どうして俗に言う「活きた」英語を学ぶこと、その英語を通して「ネイティブ」と対話することを求めてしまうのか(いや、ぼくの中にだってそんな「活きた英語」「ネイティブ英語」信仰はある)。英語を学ぶならヘミングウェイなどのクラシックな文学から学ぶ手だってある。いや、大真面目に書いている。文化についてあれこれ自己流・徒手空拳で学べば学ぶほど(英語圏のイギリスやアメリカのみならず、外国のさまざまな文化まで含む)ぼくはどんなにそれぞれの文化の伝統が大事なのかわかってきたつもりだ。いや、日本文化のすばらしさすらまだおぼつかないところはあるものの。
午後になり、グループホームの管理者とお会いする。池澤夏樹『スティル・ライフ』を再読することでおやつ時を過ごし、Discordのあるサーバに自分のアイデアの断片を日本語で書き留める。小説においてぼくがリアリティを見出すとき、それはどこから来るのか。もしぼくが発達障害者の小説を書いたならば、それはリアルなんだろうか。だとしたらどうしてだろうか……。