跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/08/16 BGM: The Beatles - A Day In The Life

この日記でも過去に書いたのだけれど、次の木曜日に友だち相手に一席プレゼンテーションを行うこととなった。それで今朝はイオンでいったいどんなことを話すべきかネタを練ることにして、そして英語とぼく自身の関係をいま一度洗い直して「英会話のここがわからない」といった切り口から語ってみるのはどうだろうかと考えた。そして、もし可能ならこんなことを語れないだろうか。どうして日本人はこんなプレッシャーを感じるんだろうか。すなわち、英語を「マスター」してグローバルな人材になるといった欲望・夢想だ。

むろんこのことについて考えると、ぼくは専門家や知識人のたぐいではない。箸にも棒にもかからない、ただの凡夫に過ぎない。したがってこの質問に正確に・詳細に答えられるわけがない。できることはただその友だちにぼくの意見を語って、そこからバイアスを脱すべく人の意見を聞いて、語り合うことだろう(その作業はもちろん「注意深く傾聴する」という作業をも含む)。思い出す……書いたことがあるけれど、過去に英語研究会に参加した時にこんな面白いディスカッションに遭遇した。いったいどうやったら俗に言う「ヴィヴィッドな」「口語的」「生きた」英語を学べるか、という問いだ。

今朝の時間を、正午までこんなことを考えることに費やす。たとえばぼくはつとめて毎朝Zoomの英会話関係のミーティングに参加し、そこで英語で他のメンバーと会話や議論を楽しんでいる。この町の英会話教室にも通うし、英語研究会も楽しんでいる。ツールであるDiscordで英語でチャットをしたり、英語日記を書いたりもしている(なんだか英語づくしの生活だとあきれてしまった)。そんな活動の数々を洗い出し、メモに書き、新しいアイデアが湧かないものか頭を整理させようと試みる。

10代のころ、日記でも書いてきたがインターネットがいまのようにはっきり見えるかたちで実用化されたものとしてこの世にあったわけではなかった(いや、もちろんパソコン通信やその他しっかりしたコンピュータなどをつなぐネットワークがあったことは間違いないにせよ)。当時、ぼくはせか映画こんなふうに変わるとはまったくもって思わなかった。そして、英語がこんなにもぼくにとって重要な言語になるとも予期できるわけもなかった。グローバル言語として重要ということもあるし、自分の考えを発展させたりシェアさせたりするツールとしても大事なものとなるとは、と思ってしまう。

もちろん、だからみんな英語を学べいまを生き延びろなんてことは言わない(それはある種抑圧であり、もっと言えば「ファシズム」「強者の驕り」の誹りを免れえないだろう)。ぼくは英語学習が楽しみになりうると語るだけだ。英語メモにそんなことを書きつけて過ごした。