その後グループホームを出てイオンに行く。カバンの中に入れたのは林志弦(イム・ジヒョン)『犠牲者意識ナショナリズム』という本で、読み進められたらと思ったのだった。だがそこはさすがにこの盛夏の暑さ。まったくもって読書に身が入らず、この本自体はすこぶる面白いのだが結局粘れなくなってしまいさじを投げて、あれこれ考えごとをして時間をつぶす。たとえば、このぼく自身の人間性をぼくはどうやって形成したのかといったことだ(これはこの『犠牲者意識ナショナリズム』でも問われているきわめて刺激的な問いだ)。
いつもこの日記で飽きもせず書きなぐっているが、過去あまりにもユニークでヘンでアホだと扱われてきたせいもあってなかなかいじめの輪から抜け出せず、友だちもできずに困ったものだった……当時、ぼくの立場から見て(あのころの学生生活はほんとうに地獄だった)誰も信頼できないというか頼れない(ように見えた)ので、したがってぼくは自分の中で思いをこじらせて、ついに死にたいとか自分なんて生まれてくるべきではなかったのだとかそこまで思い詰めたのだった。心をなぐさめるための手段を他に思いつかなかったこともあって、本を読みまくったりもした。いや、いまならわかる。それは間違っていて、ぼくは実地で生々しく人と触れ合ってコミュニケーションに身を委ね、自分を高みに導くべきだったと。まあ、あとの祭りではあるのだけれど。
林志弦が記すように、そして他にもたくさんの哲学者がいみじくも語っていることでもあるが、ぼくとはたぶんにこの人生の過程で学んだもの・触れたものが堆積してできあがった結果なのだろうとも思う。読んだ本、会った人、経験したトラウマなど。言い換えればそうして他の要素が自分を作っているのだから、ぼくは1人ではありえない。このことはあなたの眉を顰めさせるかもしれないが、ぼくの中には文化的な断片的要素がひしめいている。その中には日本人的な要素も混じっていよう。『犠牲者意識ナショナリズム』を読んでいると、広島や長崎のある種のホロコーストの歴史・記憶といったものも思い出される(いや、もちろんぼくはその場にいたわけがないのだから「思い出される」は不正確なのだが、だが自分の中にはいろいろな文学やマンガ・アニメ・映画から得た記憶が存在するとも思う。これはなんだろう)。
なんだか柄にもなくむずかしいことを言おうとしてドツボにはまったが、つまりぼくの心の中にはさまざまな記憶があるということは事実である。だから、徒手空拳というか自分なりの身勝手流で哲学を学んでいるのだろう。バイアスやフレームから離れて思考を練りたいなあ、と思って。永井均や中島義道にならって、「戦争はほんとうに悪なんだろうかどうなんだろうか」なんて危険な思考を練ってみたりもする(だが、これ以上さすがにここで書くのははばかられるので控えよう)。そしてそれを英語でメモパッドに書いたりしているのだった。