この日記でもつねづね書いてきているように、子どもの頃から学校でクラスメイトたち(とりわけ女の子たち)にひどく嫌われたりそれこそおみそにされたりして生きてきたので、だからいまだにぼくは初恋の味も実感が湧かない。異なるセクシャリティを持つ人たち(だからある意味、ぼくと愛しあえる可能性のある人たち……いやものすごく雑な整理になるが)から受け容れられるとはどういうことなのかもわからないまま、ひどい少年時代・思春期を迎えたものだと思う。いや、なんだかここまでの流れを読み返してみて若い人たちはこれを読んで「冗談は顔だけにしろ」「バカも休み休み言え」と考えるのではないかとも思う。いまはインターネットがある。まさに今朝のぼくのようにせせこましいグループを超えてグローバルにつながれる時代だ。あるいは、いまは多様性の時代でありしたがって愛の形・友情の形にしてもぼくがかたくなに考えているようなものではなくもっと多面的なものにちがいない。だが、ぼくの中にはいまだ女性恐怖・女性嫌悪・女性蔑視的な要素(なんにせよ女性をひどく抽象的な「もの」と見なしがちになる乱暴な心理)があるなとも思う。いや、開き直っているわけではなく恥ずべきことと思っている。
ぼくの身の回りを見渡すと、ぼくの周りには実に多くの女性がいてぼくに親しみ・親密な姿勢を見せてくださっているのがわかりそれがとてもありがたい。でも、ときおりそんな現況を奇妙に思う。というのは、こんなぼくの性格が上に書いたようないじめられっ子だった少年時代からドラスティックに変わったとはとうてい思えないからだ。子どもの頃から、ぼくはただの内向的な本の虫で頭の中にいかがわしくて危険なアイデアを秘めていた子だった(こんなぼくのことをあなたがどう思うかわからない。でも、ぼくの中にはたしかにプリンスや岡村靖幸の曲さながらの卑猥な考えが眠っているのだった)。過去と今の違いとは、たぶんにぼくが自分の発達障害を認めてこのエロい考えも認めることかなと思う(だが、それはもちろんそんなエロい考えを露悪的にあけっぴろげにして恥じないことを安易に意味するものではない。そこはわきまえたい)。あるいは英語で表現するようになったこともそんな違いの1つかなとも思う。
昼食時にこんなニュースを読む。またしてもはなはだしく雑な整理になるが、アメリカの有名なロックバンドのグリーン・デイがドナルド・トランプをステージ上で手厳しく批判するパフォーマンスを行ったという内容だった。彼らのスタンスがそうした「反トランプ」「反覇権主義」という方向に舵を切ったものであることは知っていたつもりだったが、それでもこの種のパフォーマンスが実にリスクを伴うものであることは想像に難くない。日本ではどうか。SNSでは日々、政府や総理に関する不平不満をしょっちゅう目にする(もちろんこれは「ぼくの見る限りでは」という話なので、あなたの見る視点からとは必然的に異なりうる。したがってぼくはもっとフェアに多角的に世界を見ないといけない)。いま、そうした不平不満を歌に乗せている表現者は誰なんだろうと思って、それについて注意深く見ていく必要があると思ったのだった。いったい、いまなにが起こっているのか。