そのディスカッションで、ぼくたちはまずフランスの女性哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールの名言を共有した。ぼくたち自身がそれぞれ、責任持った主体として生きつつ相手を愛することがどれほど困難であるか(もしかしたら不可能かもしれない)といった話なのかなと思う。女性の参加者たちが、彼女たちの知る男たちが概して子どもじみたところがある「男の子」であると(つまり、生意気で幼稚ということかなと思う)話していたのが印象的だった。
ぼくはこんなことを思った。たしかに、ぼくは独身だがその本性において幼稚な「男の子」ではあるのでこうした意見は耳に痛いというもの。だけどこの場合、どうやったら「大人」を定義できるというのかが疑問だ。それは可能なのか、可能なら、そんな成熟した完璧な「大人」は実在するのか(そんな絵に書いたお餅のような「大人」になど、誰もなれないのではないか?)。あるいは、もっと子どもじみた性格を許し合い甘え合える生き方をそれぞれが探るのが現実的というか、端的に簡単でコストがかからない話ではなかろうか(そうしたいい意味での子どもっぽさこそがほんとうの意味における親密な関係をはぐくませるとも言えなくはないだろうか、などなど)。
ぼくはなにを隠そう、今年で49歳になりしたがって火を見るよりあきらかな事実としてガキのままで許される年齢ではない。リーダーシップを発揮しなくてはならない場面も増えてくるはずだ。あるいは、異性愛者(ヘテロセクシュアル)の男として他人をリードするマッチョさも見せないといけないのかなとも思う。でも、ぼくにとっては愛されたりケアされたりする「子ども」の要素、「甘え上手」なところというのも関係性を強める役割を果たすと思うのでむずかしい。もちろんここまで書いてきたのはこのぼくの勝手な意見であり、なんだか男のオコチャマがわがまま・屁理屈をこねているようにしか聞こえないかとも思う。そんな駄々をこねる男をケアする女性の意見を無視している、と。それはそのとおりなので、もっと慎重に考えていきたいと思う。
午後も気合が入らず、ダラダラ過ごしているとあっという間に夜になった。Discordでこんな友だちの話を読む。夏休みの宿題の自由作文をChatGPTで「サクッと」仕上げたという話だ。なんとまあ、要領がいい子だなと思う。もちろんそうしたChatGPTが実に便利な達成であることはいまさら言うまでもないことだ。それは認めるし、使いようさえ間違わなければ実に多くのことを助けてくれる便利・有益なツールであるだろう。こんなことを想像する。もし、ぼくが10代の頃そんなChatGPTがあったら。あったとしたらやっかいな、でも実りのある宿題を助けてくれたのか。ぼくは鈍臭い・古臭いおっさんでしかないが、学校で出されるタスクはぼくたちの実際の実力を見極めてさらなる学びへと誘ってくれる役目があるとも信じているから、こんなことをあえて問うてみたくなる。