言い換えれば、どんなジャンルにおいても自分は結局アマチュア(トーシロ。つまり素人)であることをわきまえておく必要があるのかもしれない。語れるかなと思うのは文学や音楽、そして発達障害についてくらいだけれどそれらにしても結局なんらかのライセンスを所有しているわけでもないのだった。でも、いまやさまざまなところで目撃できるように多くのプロとされる人たちが(具体的には知識人や政治家、セレブなど)失言により馬脚を現す時代でもある。それゆえにクールで冷笑的な人たちは、プロとアマチュアの間の壁がどんどん薄くなっているともうそぶくのではないか。でも、ならばそうした状況で「プロ」の人たちとどう向き合えばいいのか。場合によっては彼らに異論を投げかけることもある。そして、つとめてロジカルに対応し、平静さと礼儀を以て向き合いたいとも思う。そんなことを今朝は考えた。
しかし、単純にここ最近続くあまりにも異常な夏の暑さのせいもあってこの種のシリアスな話題を考える根気が続か泣かなかった。不眠もあり考えがまとまらず、Facebookでぼくの友だちのビクトリアさんのポストを読む。それは読書の愉楽について書かれたもので、ぼくもついつい過去「ビフォア・インターネット(ネット時代以前)」の思い出を振り返ってしまった。たくさん刊行されていた本が新しいメディアだった頃(いや、主観でしか語れないのでいい加減なことを書いていたらごめんなさい)。その頃からぼくはもう変な子でしかなかったと思う。本に首ったけだった……いや、読んでいた本の内実は決して威張れたものではないにせよ。
その頃、この町にある図書館は実にぼくを温かく迎えてくれた「サード・プレイス」だった。そこに行けば慰安が得られ憩いのひと時を味わえる、という。同時に、ぼくはこの町にあった書店でそれなりの冊数の本を買い込んだりもしたことを思い出せる(たしか村上春樹『ノルウェイの森』も高校生の頃に自分の小遣いで買ったのだった)。いま、市民にそうした憩いを与える場、紙の本を読ませてくれる場は減ってきているなと思う。たぶんもうインターネットで実に膨大な電子的活字を読みすぎているのではないか。いや、これも実に「放談」「言いっぱなし」の低次元な思いつきになるが……でも少なくとも、ぼくはこれからどんどん老いて、読書の能力も落ちていくはずである。だけどこの性分ゆえ、本抜きでなにもない時間を過ごすことはむずかしいんだろうなと思う。本はたしかにこのぼくのそばにある。バッグの中、部屋の中、などなど……。