跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/11 BGM: Fishmans - ゆらめき IN THE AIR

今日は早番だった。昼休みに、過去にぼくが発達障害者だと診断された時のことを思い返してしまった。その後、こんなことをふと想像してしまった。もしぼくがこんなふうな発達障害者でなくもっと「普通の」「多数派の」人間、俗に言う「定型発達者」だったとしたらこの人生はどうなっていただろうか、と。もちろん、なんだかこうやって書いてみるととてもバカバカしい考え方だと思う(1種の「たわごと」だとも思う)。もうぼくもぜんぜん若くない。夢見る人間というには擦れっ枯らしになりすぎている。でも、想像が止まらなかった。なんだかこうやって考えていくとSF小説や映画の世界だ。あるいは過去に背伸びをして読んでみて結局よくわからないまま、未消化のままで終わった三島由紀夫豊饒の海』をも思い出してしまう。

もし発達障害者でなかったならこの人生はどうなっていただろうか。もっとネットフリックスのドラマ・映画に見られるような、青春そのもののイベントを楽しんだり「栄光の日々」そのものと言えるような体験ができたりしたのだろうか。もちろん、過去を生きてテープを巻き戻したりお手軽に「リプレイ」「プレイバック」なんてことはできない。いまを生きて、やり直しなんて甘いこと考えずストレートに歩むしかない。でも、想像力は止まることがなかった。ふだんぼくは、別にくだらないからというわけではなく単に手が回らないという怠慢からSFは読まない(もちろん、スティーブ・エリクソンJ・G・バラードといった書き手の作品に常に瞠目・感服させられてきたことはこの場を借りて強調しておきたい)。今日はそんな「ありえた」人生、「パラレルワールド」について考えてしまった。

もし発達障害者でなかったなら……ロマンスもありえたんだろうか。甘い初恋というか、キスやデートといったイベント……その後結婚したり家族を築いたりできたんだろうか。そんなことはもうぼくの想像力を「軽く」超えた範疇に属すること、文字どおり「未知」の世界だ。この宇宙の外側にもう1つ宇宙があるかどうかなんてことを考えるのと同じような、とんでもなく遠い遠い次元の話だ。でも……そんなことがメインな理由の1つだったということなのか今日は仕事が終わってからイオンの中にある未来屋書店に行き、そこで酒井順子が現代語訳した文庫版の清少納言『枕草紙』を購入し、そしてカバンの中に入れた。ああ……ぼくはこれまでたくさんの本、あきれるほどバラエティに富んだ本の数々と親しんできたのだけれどそれはぼくの中にある欲深い好奇心がこうして他人の人生を垣間見させ、体感させたいとぼくを誘ってきたからなのかなと思う。いや、それは結局「仮想現実」「VR」で他人の感覚を知ったつもりになるのと似たような試みではあり、結局はぼくはこの単一のぼくのリアリティを生きるべくして生きるのだけれど。

夜になり、お待ちかねの英会話教室に赴く。今日のテーマは「旅」で、先生方からどんな表現が有用なのか教わる。たとえば、道に迷った時に目的地に着くにはどうしたらいいか。授業内容は楽しかった。それは嘘偽りのない事実なのだけれど、でも実は情けなくなるけれどいまだにぼくの英語がいいのか「まあまあだね」「悪くないけど」程度なのかわからず自信を持てず、これでも遠慮したり空気を読んだりしてしまったりでおっかなびっくり話しているうちに時間がいたずらに経つ。先生方はもちろんぼくたちに実際に「スピーキング」「話す」機会を設けて下さったのだけれど(実に気さくに接してくださり、先生たちの出身地アメリカのことも話して下さった)それをぼくは活かせなかった。ああ、情けない。もっとこの内なる「殻(カラ)」を破り、生まれ変わる努力をするべきなのかなあと反省してしまった。