ここ最近、靴下やシステム手帳用のリフィルなどを買っていったらお金が順調になくなってきた。ただそういった「やむを得ない」消費だけではなく、年末年始のプレッシャーからの過食気味もあるので削れる出費は削らなければならない。そうした出費を抑える努力に加えて、お金を持ち続けている状態に慣れることも必要なのかな、と思った。貧乏が身に染み付いているせいか、自分はお金を持っていても落ち着かず使うことに快楽を感じる傾向があるように思ったのだ。慣れなければならない。少しずつセーブして、お金を少しでも手元に残す努力をしたいと思った。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読む。当たり前の話をするが、「二階堂奥歯」は彼女の本名ではない。彼女は自分自身にそうした名を与えた。そして、彼女はその「二階堂奥歯」を大事に育ててきた。そうした、自分自身の主体と客体を分けた状態で客体を育てる努力を彼女は行ってきた。こうして分身的存在と一緒に生きることは、しかし何ら奇妙なことではない。私たちもまたそうした分身的存在を設定し、一緒に生きて並走していると言えるのではないか。私だって「踊る猫」という名前を自分に名付けて、そして生きているのだから。
その主客が分離し、そして再統合を果たした状態を生きることはどのような影響を精神に及ぼすのだろう。「理想の自分」を客体として作り出すことはできるのかもしれない。だが、それはあくまで「客体としての自分」であり「主体としての自分」「この自分」ではない……そこで考えが止まってしまう。そうした「主客の分離」のキツさと、それを経て人格の再統合を成し遂げること。そこに関心が及んだ。読むに連れて彼女の記述は混迷を極めていく。おびただしい引用の森の中から彼女の悲鳴が聞こえてくるようで、実に印象的な読書だった。他に言葉が見つからない。
夜、オンラインミーティングに参加する。そこでチャリティーショップを営んでおられる方の話を聞かせてもらう。話はそのショップの実情から市井のボランティア活動として行われているさまざまな支援にまで及んだ。政府や行政が何もしてくれない、と嘆くのは簡単だ。だが、こうして「ならば私が」と自ら活動に乗り出し「汚れを被る」覚悟をすることを忘れてはならないと思う。現状の活動の問題点に関しても話が及び、実に闊達に意見交換が行われた会となったように思った。私も話に出たチャリティーショップに行って店内を見渡したいと思わされた。私の消費活動が何かの足しになれば。