跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/09/09

BGM: Phil Collins "Both Sides Of The Story "

今日は遅番だった。朝、clubhouseでジュディスさんと話をする。clubhouseなどで私たちが結んでいるつながりについて話をした。私はclubhouseの雰囲気が好きだ。clubhouseでは私は絶対的に正しい人間、もしくは強い人間や完璧な人間として振る舞わなくてもいい。別の言い方をすればスキを見せてもいい。私は実にアホな人間というか弱っちい人間なので、気取ったり威張ったりしなくてもいいclubhouseでのコミュニケーションにこそ居心地の良さを感じているのだった。Twitterのような場所でのスキを見せない「バトル」にはほとほと疲れてしまう。

昔は自分はもっと強くなりたい、もっと自分を鍛えたいと思いネットでフレーミングに身を投じたりしていたが、今はネットで議論をするのは時間の無駄とは言わないまでも、難しいことではないかと考えるようになった。闇雲に結論を急ぐのではなく、相手の発言の背景まで深く理解したコミュニケーションが求められるのではないかと。そうなると、端的に時間がかかる。相手を丸ごと理解するのだから必然的に全身全霊を込めたコミュニケーションが必要となるだろう。そう考えるとネットでの議論の難しさが見えてくる。

結局今朝は1冊も本を読めなかった。長田弘の本を読み、自分の存在について考える。自分とはちっぽけな存在であって、その自分は自然に囲まれ、自然とつながっている。あるいは友だちとの関係が織りなすネットワークの中に存在し、自分自身のライフストーリーやこの世界の歴史の中にも存在していると言えるだろう。マクロな次元で捉えれば、自分はひとりではなく実に豊穣な世界の中に位置している。昔保守主義について読んだ時のことを思い出した。自分は伝統の中に位置しており、先祖から託されたものを受け継いで生きている。そう考えると厳粛な気持ちになる。

イギリスのエリザベス女王の死のニュースを聞き、安倍元総理の死と(はしたない振る舞いではあるだろうが)比べてしまう。私の観測範囲でもこの2人の死のニュースから、真に死者を悼むということについて考える人が現れていることに気づく。私の知り合いは安倍元総理の死に関して献花を行い、弔いを行った。そういう国民が現に存在するのだ。これは「アベガー」と一方的に/近視眼的に糾弾する論者の視点からは絶対に見えてこない。私は「反安倍」の立場に立つ者だが、自戒を込めてこう記す。フィル・コリンズに倣って「Both Sides Of The Story」を知る姿勢がないといけないのだと思う。