2022/08/05

BGM: The Smiths "Meat is Murder"

今日は遅番だった。朝、多和田葉子『カタコトのうわごと』を読む。彼女の佇まいをどう表現したらいいのだろう。私は彼女の姿勢を「頭脳派」だと思っていた。日本語とドイツ語で縦横無尽かつスマートに表現を行える、知的なセンスに恵まれた書き手なのだと。だが、このエッセイ集を読んでいると彼女は二か国語を駆使する中で言葉の孕む矛盾に全身で戸惑い、そしてその矛盾の生み出すカオスを生きようとしていることが伺える。いわば「肉体派」……と書いてみて、この言葉が妙にエロティックに感じられるので造語で「身体派」と表現したくなった。

マラルメだっただろうか、「肉は悲し、なべての書は読まれたり」と詩を詠んだのは。戸川純は「我一介の肉塊なり」と歌っている。どちらもこの自分自身を「肉」と呼んでいるのだった。しかも非常に自虐的な響きを伴って。だからこそ、自分自身の無力さが際立つ表現となっているようにも思われる。「肉体派」という言葉にはそうした無力な存在としてのイメージがつきまとうように思う。「身体派」という言葉はあまり洗練された響きは伴わないが、少なくとも多和田の佇まいを形容するには相応しいのではないかと思った。

時間があったので、長田弘『私の好きな孤独』を読み始める。詩人である著者の言語感覚が冴えている。彼はナンセンスな詩の愉楽について書き、名前を付けることについて書く。ナンセンスな詩ということでいえば、最近聞くようになったXTCの歌詞が思い浮かぶ。日本のポップソングはラブソングばかりだ、という風説があるがこれは日本人の真面目なところが出ているのではないかと考えてしまう。もっとナンセンスな、意味のない戯言がメロディに乗るべきなのかもしれない。井上陽水の歌詞はその意味でかなりナンセンスだと思う。

名前ということで言えば、私は「踊る猫」という名前を名乗るようになった。これはネットで新しい名前を名乗らなくてはならなかった時に、本名を名乗るのも抵抗があったのでその時たまたま聴いていた石野卓球『throbbing disco cat』にあやかって「disco cat」と名乗り始めたのだった。だが、和名(?)が欲しくなったのでこの「disco cat」を和訳して「踊る猫」にしたのだった。パッとしない名前かもしれない。エゴサしにくい名前なのでエゴサをすることもなくなった。私としてはなかなか気に入っている名前でもある。