BGM: Bruce Springsteen "Born In The U.S.A."
早番だった。仕事中、秋葉原通り魔事件を起こした犯人の加藤智大の死刑が執行されたというニュースを聞く。このことは少なからず私にとってショックだった。私自身、彼と似たような境遇で生きてきたので彼にシンパシーすら感じるところがあったからだ。むろん私は彼の殺人を許さない。言語道断であり、擁護できる余地はない。あるいはこういう言い方もできる。安直に殺人犯にシンパシーを抱いたことを表明することは、確実に存在する被害者の遺族にダメージを与えうる無神経な言動につながる、と。そう考えると言葉を失ってしまう。
私は死刑に関して現在のところ「消極的に賛成」という立場を採っている。というのは、死刑は加害者/犯罪者が生き続けて罪を償う機会を奪ってしまうという意味において悪でありうると思うのだが、同時に加害者/犯罪者がのうのうと生き続けているということで被害者の遺族が心理的に理不尽さを感じるとしたらそのケアについても考えなければならなくなる。加害者/犯罪者が死刑になることによって被害者の遺族が癒やされるというのだとしたら、それを直ちに幼稚だとか否定することはできない。加藤のような人間が死んでくれれば私は救われる、という被害者の遺族の心理が存在しうるとしたら、その心理にどのように寄り添えばいいのだろうか。そこで言葉を失っている。それゆえに「消極的に賛成」する。
私はいじめを経験したし、成長してからも就職で躓きブルース・スプリングスティーンの曲「ボーン・イン・ザ・USA」の主人公のように腸が煮えくり返る思いを抱えて生きていた時期もある。私自身、自分が近所のイオンで包丁を振り回して暴れる人間にならなかったのが不思議にすら思う。多分私が恵まれていたのは、私が中上健次や大江健三郎のような作家の作品によって憎悪を癒すことができた人間だったからであり、あるいは信頼できる人とのつながりの中で成長することができたからだろう。私はその意味で幸せだった。いや、むしろ幸運な人間だったのかもしれない。加藤について肉迫したノンフィクションを読み返し、このことを自分なりに噛み締めたくなった。
夜、英会話教室に行く。今回のトピックとして、日本の夏をどう過ごすかについて話すことになった。宍粟市にはアミューズメント施設はない。あまりにど田舎なので夜中にウーバーイーツを利用することもできない。が、近所の川で泳ぐことができるしクワガタムシを採りに行くこともできる。釣りを楽しむことだってできる。昔ならこんな何もない土地で自分が生きなければならないことを絶望し、酒に溺れていただろうが今は英会話教室で一緒に学ぶ人たちとのつながりを楽しめる。人とのつながりは確実に人を育てるし、人を癒やす。そのことに私は確信さえ抱く。私自身の人生がまぎれもない証拠だ。