某月某日
今日は英会話教室に行った。特にこれといって何かの決意を固めたわけもなく、ただやってみたかったからという理由で英語と日本語で日記を書き続けて1年が経とうとしている。そんななので、私のことを知る人は英語が好きなのだと私のことを受け容れて下さっている。私も実際に英会話教室でネイティブ・スピーカーの先生たちと話し、先生たちが教えるアメリカという国や引いては世界全般の状況について学ぶのを刺激的に感じる。今日もアメリカのお国柄と日本の違いについて学び、楽しいひと時を過ごした。こうした機会をありがたいと思う。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』という映画を思い出す。この映画で、地球外生命体が発する言葉を解読しようとする言語学者が登場する。彼女は地球外生命体の言葉を学ぶ。それはそして彼らの(?)物事の考え方を学び概念を学ぶことに繋がる。そうして学ぶ過程で彼女に変化が訪れ、彼女の時間の感覚及び死生観が変容する……という面白い映画だ。私自身、英語を学び使う過程で自分自身の物事の考え方が変容するのを感じる。英語を使うことでそれまでとは違った角度で物事を捉え、考え方を改良することができるというメリットを感じている。
これはややもすれば「だから英語は世界の公用語であるべきだ」と語る姿勢に繋がり日本語の美しさを台無しにし、日本語で物事を考えることの効率性をも有耶無耶にしてしまう姿勢に繋がりかねない。私は日本語は巷間で言われているほど非論理的な言葉だとも思わない。だが、英語を学び使うようになってから私の日本語が良くも悪くも変わり、私の考え方が(自覚されない部分ももちろん含めて)変わったことは確かである。そうして、言葉を学ぶ過程で自分自身が変わるという現象をもっと私たちは重大な事柄、貴重な事柄と思ってもいいのではないかということを言いたいのだ。
では、そうして変わる自分自身とは一体どのようになりうるだろう。自分自身とは決してスタティック/凝固した物体ではなくむしろ如何ようにも変化しうる可塑性を備えている、というのが私が思想から学んだことである。だが、その変化は言うまでもなく一朝一夕で起こるものではない。ただひたすら自分の脳に英語や日本語を刻み込み、自分の中のブラックボックス/無意識を鍛える。それがどういう変化や進化となって現れるか。私は英語を学んだ果てに一体何を見出すのか。単なる言葉の使い分けのみならず、自分の中に多様な文化への感受性を養ったという意味でバイリンガルとなる日が来るのを待ちつつ、私は英語を学ぶ。