朝、言語交換グループのチャットをZOOMで楽しむ。私ともうひとり日本人、そしてトロント在住のネイティブの方の3人であれこれ英語と日本語を交えて話した。発達障害者は雑談が苦手と言われていて、私もこうした雑談は47年生きてきたのに未だに苦労する。だが、他の方が私に丁寧にパスを回して下さったおかげでいろいろ話すことができてそれがありがたいと思った。漫画について、ゲームについて、アニメについて……日本という国についてネイティブの方が関心を持って下さっていて、私(たち)の受け答えにも熱が入った。楽しいひと時だった。
夜、clubhouseで自分のルームを開く。そこでまたアゼルさんやヤネさんを相手に自分の過去の話をする。自分が女の子から嫌われて育ったということ(男の子は運動ができてこそ「男らしい」という風潮がまだ根強かった時代のことで、運動が下手くそだった自分はずっといじめられて嫌われた)。ゆえに自分は愛される価値なんてないと信じ込んでしまったこと。そして本だけを相手に生きていこうと、自分を閉ざしてしまったこと。だけど40歳になって、とある女性と出会ったこと。彼女に恋してその思いを伝えて、彼女がそれに対して語った言葉が私を変えたこと。そんなことを話した。
彼女は私に、「自分のことをそこまでボロクソに言うのは止めたらどうですか」と言ったのだった。その言葉は冷たいようで、彼女らしい優しさに満ちた言葉だと感じた(と書いて、冷たさと優しさは両立する概念かもしれないとも思った)。私はその言葉を忘れないだろう。少しずつ、彼女や彼女の母親、そして友だちとの関わりの中で生まれ直したというか、自分を再構築し始めたのだった。発達障害者は他者の言葉を「割り引いて」受け取ることができない。それゆえに彼女の言葉は私の中で生き続ける。失敗を恐れずに自分のことを話したことは結果的に間違っていなかったのだな、と思った。
その後図書館で借りた横道誠『イスタンブールで青に溺れる』を少し読む。この本は自閉症の文学研究者が世界を旅した経験を綴っており、アゼルさんが住んでいるキルギス共和国についても触れられている。自閉症者は氾濫する音(相手の話す声やその他の雑音)を注意深く聞きすぎてしまうせいで処理が追いつかずパンクすることがある、と説明されているのを読む。私も、とりわけ英語で会話している時は相手の言葉を聞き逃すまいと必死になるのでガス欠がくることが多いなと腑に落ちた。当事者の目線から描かれた実にアクチュアルな本だ。私自身、自閉症者としてこの本から多くを学べそうだ。