跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/04/16

今日、いつものように昼休みに十河進『映画がなければ生きていけない 2016-2018』を読んでいたのだけれど、十河進の博識ぶりに舌を巻きながら自分自身のことを顧みた。40歳にして映画を観始めた時に基礎的な映画の知識がないことを散々叩かれたなと思ったのだった。それを言い出せば文学や音楽に関しても私は知らないことが多いので人を呆れさせたり笑わせたりしたことがあるな、と。自分がそんな体たらくなので、私は他人の無知をなじったり笑ったりしないことにしている。本当にすごい人は(それこそ十河進のように)知っていることにあぐらをかいて威張ったりしないと信じている。

なぜ無知はいけないことだとか恥ずべきことだと思われたりするのだろう。常識的に考えて、誰も最初は素人であり無知なはずだ。だからマウントを取って「こんなことも知らないのか」と威張る人はそんな自分自身の初心を忘れている、単に傲慢な人なのだ。相手にするだけ時間の無駄だと思う。私もずいぶん自分の無知に悩み、具体的に言えば40までドストエフスキーを1冊たりとも読んだことがなかったりキューブリックの映画を1本たりとも見たことがなかったことに恥を感じたものだけれど、じゃあどうすればよかったのだ(どうしようもないじゃないか)と思って居直ることにしたのだった。軟式globeのパーク・マンサーではないが「それがどうしたアホだよ」の精神だ。

だが、考えようによっては(もちろんこれは本当に屁理屈だが)そういう劣等感が人を育てるとも言えるわけで、私は自分の無知を克服しようとして映画を観て本を読んだなとも思ったのだった(かつて、発達障害の診断の際にテストの結果から「あなたは本当に負けず嫌いが激しいんですね」と言われたことを思い出す)。せっせと映画を500本ほど観て、本を1000冊ほど読んで……だが、知れば知るほど謎が深まるのがこうした芸術鑑賞というもの。未だに自分は文学や映画に関してエキスパートになれたとは思わない。多分永遠に半可通のままで終わるのだろう。ならばエドワード・サイードに倣って「アマチュアの知識人」の道を生きるまでなのだった。

それで仕事がハネたのでグループホームに帰ってその十河進のコラムを読み進める。ネットフリックスで『アンディ・ウォーホル・ダイアリーズ』を観ようかとも思ったが眠くなって寝てしまったので観られなかった。ダラダラ生きているなあ、と反省する。ブログにコメントをいただいたのだけれどその返事も書けていない。それにしても、本当に十河進のコラムを読んでいる人は「the happy few」(幸せな少数者)だなと思ってしまう。この人はもっと評価されるべき人だ。彼のコラムを知ったことで自分自身の映画鑑賞のあり方や、引いては生き方そのものもずいぶん影響されたと思っている。