跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/06

永井均の本を読んでいると、大真面目に(だが、ユーモアも込めて)「自分が分裂したら、その分裂した自分は自分なのだろうか」という問いが突き詰められているのを面白く感じる。そんなこと起こりっこないだろう。だが、あながちナンセンスな問いでもない。その荒唐無稽な問いを通して、「私」という人間がここにひとりしか居ないこと、これまでも居なかったしこれからも存在しないだろうという事実のかけがえのなさについて考えられているのが興味深いのだ。確かにこんな哲学は他の誰も考えそうで考えなかったものだと思う。

私はここにひとりしか居ない。過去に私が存在したわけでもないだろうし(存在していたとしても、その頃の記憶なんて持っているわけがない)、未来に自分が存在するかどうかも「今」わかりっこない。そして「今」も、私はここにしか居ない……だが、例えばリオデジャネイロあたりにもうひとり「私」が居たとしたら? その「私」が今ここに居る「私」に会いに来たらその「私(in リオデジャネイロ)」は「私(in 日本)」なのだろうか? そうだとしたらなぜ? 違うとしたらなぜ? この問いは「私」を問い直すものだと思う。斬新な独我論だ。

だが、永井均のこの問いを私は上手く共有できたとは思えない。「私」がここにひとりしか居ない、という事実は哲学的にあれこれ考える前に、肉体がひとつしかないこと、私という実体がひとつの現実しかマネージメント(?)できないという端的な現実に由来する、極めて本能的な実感から来ると思うのだ。永井均の哲学はその意味で肉体を欠いた抽象的な議論であるように思う。頭でっかちに議論/論理は先鋭化されていくが、そうすればするほど私たちのリアルとはかけ離れていくのではないか、と思う。ならば、永井均の議論は肉体を欠いたままどこまで進化するのだろう。

友だちからLINEが来る。今起こっているロシアのウクライナ侵攻について、どう思っているか意見を聞きたいというものだった。「いろんな意見があっていい」というのがまず大前提としてあった上で私なりに考えるなら、私は保守主義の側に立ちたい。人は完全ではありえないし、感情で動く生き物でもありうる。その不完全な存在として、自身の「足りなさ」に自覚的でありなおかつ漸進的に対話を重ね慎重に進歩を重ねていく姿勢が必要である。故に、対話の可能性を損なう戦争に関しては反対の姿勢を採る。そんなことをLINEで答えた。今もこの答えは変わらない。戦争には(改めて)反対する。