跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/14

今日は遅番だった。昼に『鶴見俊輔語録2』を少し読む。平凡であることの力について考えさせられた。平凡……かつては私は特別でありたい、太宰言うところの「選ばれてある者」でありたいと思っていた。才能に溢れ、それ故に生きづらさを感じざるをえない存在。子どもの頃からずっと周囲と反りが合わなかったから、こうした超人願望(?)が育まれたのかもしれない。今は、「普通」が持つ力に憧れる。「普通」ないしは「普遍的」であること。ただその人がその人であるという、それだけの飾らないスタンスが持つ力についてだ。

飾らないスタンス……鶴見俊輔の言葉からは、そうした自然体であることの力、「柔能く剛を制す」しなやかなスタンスの力が感じられる。ただここに私が存在していられること、それだけで充分だ……そんな飾らない姿勢に惹かれるものを感じた。そして、鶴見俊輔は抽象的な観念を弄ぶことはしない。私なら私はしばしば抽象的な観念をツールとして用いて空理空論を編んでしまうのだけれど、鶴見はそうした思考の言葉遊びを禁じる。そうした言葉遊びが観念の暴力に堕するのを嫌ってのことだ。その姿勢も私は共感してしまう。

かつて、私は(今のひろゆきみたいに)議論に勝つこと、議論で相手をねじ伏せることにこだわっていた。だから会話ではすぐに喧嘩腰となってしまい、相手に無礼なことをしてしまっていた。それでは議論をする肝腎の目的を見失う。議論で大事なのは共通理解を試みて真実を探ることなのに、私のつまらないメンツにこだわってその場しのぎで相手を打倒すればよしとなってしまう。ただ、そうしてしまうことは本質的に私自身に自信がないことが原因だったので、それを克服するためにはそれなりの時間がかかった。今もまだ完全に克服したとは言えない。

鶴見俊輔を読んでいると、そうした自分の肉体的な感覚というか直感を踏まえた思考がなされているので私にも合うように思われる。私だって器用に/利口に、もっと効率的に思想を学びたいと思うことがある。読書よりもコスパのいい方法で(例えばYouTubeを観るなどして)。だが、どれだけコスパを突き詰めても最終的に見聞きした意見は自分の身体の中で「腑に落ちる」ことなしには血肉化しない。つまり、私は「腑に落ちる」肉体的/フィジカルな体験を求めている。このあたり、内田樹の思考と絡めて考えると面白そうだ。内田樹の本はなにから読めばいいのだろうか?