跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/12

ブレイディみかこ『他者の靴を履く』を読み終える。あまり評判のいい考え方ではないが、昔中島岳志『「リベラル保守」宣言』を読んで以来保守主義の考え方に興味を抱いている。ブレイディみかこのこの書物もそうした保守の考え方に相通じるものがあるのではないかと考えた。人間は不完全な弱い存在である、という事実を結論としてではなく前提としてスタートし、そこから「弱いつながり」をどう構築するか。そのベースになるのが「誰にも支配されない」というアナーキーな精神なのだろうと思う。アナキズムを貫く自立した人々が連帯し社会を築き上げる、という。

アナキズムとは無秩序・無政府主義を表す言葉なので、そのまま破壊的な存在というか社会をぶっ壊す存在ではないかと誤解されそうだが、ブレイディみかこレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』を引いて政府からの制圧、つまり「上」からの支配ではなく私たち自身が特に非常時に見せる自律したつながりから来る緩やかな共同体が生まれうる可能性を示唆している。私もまたアナキストなので(むろん私は日本という国を愛しているし、政府が提供するインフラのお世話になっているのだが)、この考え方は興味深いと思った。

この考え方がどこまでアクチュアルなのか、独り合点で閉じるよりも他の人の意見を読みたいと思う。私はこの人間観、つまり人間は矛盾しうる弱い存在であり、それ故に愛おしくさえあるという考え方に坂口安吾の思想を連想した。「不良少年とキリスト」というエッセイで「人間をわりきろうなんて、ムリだ」と断言したあの安吾の思想だ。人間は有限のか弱い存在だ、という事実をあきらめの口実にするのではなく、スタート地点として考え書き続けた安吾。弱い存在であることを踏まえて、もっと堕落しろ、もっと絶望しろ、「生きよ堕ちよ」(「堕落論」)と言い放ったあの安吾を思い出す……なんだか難しくなってしまったような?

関川夏央『昭和が明るかった頃』を読む。この本の中にはふたりの関川夏央が居るな、と思った。ひとりはクールに吉永小百合石原裕次郎の出演した映画や当時の世相を斬る批評家としての関川夏央である。そしてもうひとりは、ホットにそうしたスターたちの人間性・俗物性に肉薄し感情移入すらして、彼らの人間臭さを肯定する関川夏央だ。そのふたりがせめぎ合うことで、独自のハーモニーが(不協和音も含めて)生まれているように思う。そして、こうした仕事を可能にしたことは関川夏央という人の懐の深さ故であることは疑いえないとも思った。