人生は上々だ

Life is good.

2022/02/10

読書メーターというサイトで読書の記録を続けているのだけれど、最近沢木耕太郎『バーボン・ストリート』を読んだことを記録しようとしたら、すでにこの本を読んでいたことを知った。4年前に読んでいたらしいのだ。そんなことまったくもって忘れていたので、新鮮に読書を楽しめたのだから損をしたのか得をしたのかわからない。こうして日記を書いていることにしたって、私は完璧な記憶力など持ち合わせていないので過去のことはどんどん忘れていくだろう。忘却することはある意味、幸せの源泉なのかもしれないな、とも思う。私はどんどん忘れていく。

40代で「人生に飽きた」と言ってしまうメンタリティについて考えている。この心理は私も理解できなくもない。私だってこれから先、かつてのようにフィッシュマンズ村上春樹の新作を待ちわびて興奮した体験など望むべくもないだろうと思う。でも、過去に生きていると言われればそれまでかもしれないけれど、それでも昔狂ったようにむさぼり読んだ本を読み返す楽しみはこの年齢にならないと味わえない。これまで生きたこと、生き延びたことはこれから確実に「活きる」。そう信じている。それが私の哲学だ。

『自由』が『虚無』と化した先の人生の生きがいについて(あるいは個人主義と共同体主義の狭間で) - 自意識高い系男子

「充実」「生きがい」を求める心理はわからなくもない。だが、そうして人生にある種の輝きを求めて(渇望して、と言ってもいいかもしれない)生きようとすることを、私はある時期から諦めた。鶴見済的な言い方をすれば、「ドカン」と人生を好転させる「充実」「生きがい」を「外に」求めるのではなく、自分の「内側」にある「本当に欲しいものはなにか」「本当に幸せだと思えることはなにか」を問い続け、そこから自分なりにしっくりくるものを吟味しそれを追うことしようと腐心するようになったのだ。自分の「内側」。カッコつけた言い方をすれば、自分が個としての実存を賭けて手に入れたいこと。

「充実」「生きがい」を「外に」求める心理は、自分にしっくりこないものをも呑み込もうとする心理のように思われる。あらかじめ「誰かが決めた」幸せを自分の幸せと錯覚する心理、というべきか。すっぱい葡萄の話そのままじゃないかと言われればそれまでなのだけれど、私はどうあがいても自分がてっぺんを取れるタマではないことを悟り、ならそれでもいいと思うようになった。てっぺんに登るだけが人生ではない。ふもとで野花を積み、せせらぎの流麗な流れを楽しむ人生があったっていいじゃないか、と。いやこれも「誰かが決めた」人生の裏を行っているという意味では他人にコントロールされているではないか、と半畳を入れられそうだが。