跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/01/12

BGM: Bonnie Pink "犬と月"

昼頃に実家からグループホームに帰ってきた。昼寝をして、そのまま今日は完全休養に徹することにして十河進『映画がなければ生きていけない 1999-2002』を読む。その後図書館に行きアニエス・ポワリエ『パリ左岸』と『サミュエル・ベケット証言録』を借りる。どちらもサミュエル・ベケットが重要人物として登場するが、私は演劇に詳しくないのでベケットは「ゴドーを待ちながら」すら知らないのだった。YouTubeを探れば「ゴドーを待ちながら」を観られるかもしれない……と思って調べてみたらいくつかアップロードされているようだ(むろん、観られるならオフィシャルな映像を観たい)。

こないだ書いた小説は知り合いから好評なようで嬉しかった。早稲田に居た頃、私は柴田元幸が翻訳したという理由でポール・オースターの書いたものを熟読していた。『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』『最後の物たちの国で』、そして『ムーン・パレス』。ある方から私の書く英語がきれいだと言われたのだけれど、その原因は多分こうして柴田元幸の翻訳を経由して「きれいな英文和訳」を読んできたからかもしれない。原文で読んでいないので威張れたものではないにしろ、翻訳からポール・オースターの文章の呼吸を掴んだのかな、と。

昨日書いたことを引きずるのだけれど、私は今年47歳になる。子どもの頃は47歳というともう充分大人であり、恋愛ともその他新しいこととも無縁で円熟味を増した人間となって、老いていくだけと思っていた。フレッシュな体験などできない、と。だが、この歳になってくると一度体験したことをまた別の角度から味わえる旨味を楽しめる。ポール・オースターの小説を熟読した過去を振り返ることもできる。そう考えると人生に悲観的になることもないのかもしれないな、と思った。私が根が単純すぎるせいかもしれないのだが、この分だと50になっても60になっても益体もないことを考えていそうな気もする。

青春時代が美しいものだとは思わない。若さは無限の可能性を約束する、なんてことも思わない。むしろ私にとって若さは愚かしさの別名であり、自分のことも世界のこともなにもわかっていないが故に葛藤を感じムダにあがくしかない、そんな頃なのだと思っている。若い頃、発達障害者だとわかっていたなら……だが、この歳になってみるとそんな愚かしさもまた懐かしい。小説を書くことで、大学に潜り込んだもののロクに授業にも出ず、ひたすら本を読んで奇怪な思想をこじらせていた自分とまた出会えるのかな……なんてことを考えている。