跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/01/08

BGM: U2 "Bad"

自分は間違っているのだろうか? そんなことを考えた。発達障害者として生まれた自分が世の中に合わせるのではなく、むろん自分の至らないところを認めた上で、なおもありのままの自分を誇り世の中を自分に合わせること。それを考えてやってきたつもりだった。だが、ここに来てそれは間違っていたのかもしれないと思えてきた。自分はやはりひとりの発達障害者であり、それ故にアウトサイダーであり、間違っているのかもしれない、と……ただ、そう考えると自分が為すことではなく自分の存在自体が間違っているということを認めることになる。

私は46年生きてきたのだけれど、その長いような短いような歳月で学んだことがある。それは、私は結局は私以外の何者にもなれないということだ。どれだけ歳を重ねても私は読書を続けるだろうし、映画を観るだろう。私はサーフィンをしたりスノボをしたりすることはないだろう。それが私である。そして、そんな私でもいい、読書好きで映画を観る私でもウェルカムだよと言ってくれたのが今関わっている発達障害を考えるグループなのだった。そのグループと一緒に歩んできた年月は自分の中で楽しい経験として活きている。

大学生の頃、私は左翼運動に関わったことがある。と言っても3ヶ月ほどだったのだけれど、理念としては今でもその活動家たちに共感しなくもない(今でも、だ)。だが、最初に感じたかすかな違和感について考えるうちに、彼らの閉鎖的な体質と古びた価値観がどうしても我慢できなくて辞めてしまった。その経験から、勘からくる「かすかな違和感」を無視しないことを私は生きる指針にしている。逆に言えば「かすかな違和感」を感じないならそのまま突き進むべきだ、と。今、私は自分の中で「かすかな違和感」を感じていない。故に、突き進むべきだと思っている。それは確かだ。

夜、ネットフリックスで『フェミニストたちのメッセージ』を観る。今、こうして男女平等が実現しつつあるのもフェミニストたちが粘り強く活動してきたからであり、裏返せば彼女たちは男性社会の中で苦しんできたのだった。常識というものは簡単に書き換わる。私が発達障害を考えるグループと関わり合うようになってから、発達障害をめぐる考え方や基礎知識も随分変わった。私たちが声を上げていけば、状況は少しずつではあるが変わりうる。そんなことを考えた。改めて書く。私は私以外にはなれない。また、なる必要をも感じていない。