跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/09

図書館で堀江敏幸の短編集『雪沼とその周辺』を借りた。読んでみているのだけれど、自分もこんな短編を書いてみたいと思わせられた。優れた芸術というのは、そういう「これなら私もできる」と思わせる類のものも含まれるのではないかと思う。ビートルズブルーハーツに憧れてバンドを組んだり、イチロー新庄剛志に憧れてグラブを買ったり、というように。それで本棚から大西巨人が編んだ『日本掌編小説秀作選』上下巻と川端康成『掌の小説』を引っ張り出した。時間があれば読んでみたい。そして私も私なりのものを書きたい。

かつて、私は小説家になるんだと足掻いて仕事も私生活もそっちのけで小説を書いたことがあった。だが、長いものを書こうとして集中力や体力が続かず息切れしてしまったのだった。発達障害者だからなのか、持続する力や根気がない。おかげで生まれて初めて書いた長編は酷い有様となり、ついに「向いていないことはやめた方がいいですよ」と言われたのだった。短編というか掌編なら自分にも書けるのかもしれないと思う。あるいは、この日記も自分に合った表現形式だから書き続けられているのかもしれない、と思った。

そして、今では前と別の価値観に基づいて小説や日記を書くようになった。「まずは自分の生活を整えてから」と思うようになったのだ。具体的に言えば健康な身体を獲得すること。よく歩き、よく食べ、よく眠る。そして生活の基盤をしっかり作り上げることも忘れてはならない。私は仕事をしているのでよく働き、よく学び、よく読む。そうしたベースがしっかりしていてこそ、突然にひらめきが生まれてもそれを作品にすることができるのではないかなと思ったのだった。準備がしっかり整っていてこそ、奇跡を具現化できるのではないかと。

長編を書けない。これはまあ、私の特性なので仕方がない。世の中には短編を書き続けて名手と呼ばれるようになった人たちも数多いる。例えばレイモンド・カーヴァーのような作家がそうだ。逆立ちしたってできっこないことに拘泥するのをやめて、与えられた制限の中で自分の才能をそれでも発揮すべく専念すること。それが幸せをもたらすのかもしれないな、と思っている。私は村上春樹でもなければポール・オースターでもない。あんなウェルメイドな長編は書けない。そして、それが私の人生なのだ。今度ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』という短編集を読んでみようか。