Back To Life

Back To Reality

2021/10/04

昨日夏目漱石の本と一緒に借りたリービ英雄アイデンティティーズ』を読み始めた。リービ英雄の名は島田雅彦のエッセイなどを読んで知っていたのだけれど、読まず嫌いで終わってしまっていた。なのでここ最近になって虚心に読んでいるのだけれど、彼のストイックでそれでいてユーモアを忘れないおおらかな姿勢からは学ぶところが大きい。ただ、リービ英雄ほどに自分は英語を真摯に学べているだろうか、とも考える。自分にとって英語とは結局食べるために真剣に学ぶ言葉というより、カジュアルに(クールに?)身につけた言葉というのが正しいのかな、と……。

私がなぜ英語で書き続けるのかというと、それは単純な話で私が考えていることを伝えたいのだけれど、相手が日本語を解さない場合があるからだ。つまり、私が日本の文化圏の中で暮らしながらそこで感じたことや学んだことを伝えたいという思いがあるからで、英語圏の中で必死に生き延びるために英語を学んでいるからではない。それが私がどうも切実に英語を学ぶ作家たちの苦しみを理解できない一因となっているのではないかなと思う。私にとって英語とは屈託なく自分の思いを表現できる手段であって、したがって死活問題になるほど真剣に学ぶ必然もない、というように。

とある人に英語で手紙を書くことを考えている。知人に薦められたからなのだけれど、その方が居なければ私は自分の英語に自信を持つこともなかっただろうし、したがって英語で書き始めることもなかっただろうから、運命の人なのだと思っている。その方のことを人生の先輩にして偉大な恩人だ、と思っているのだけれどこの「恩人」という言葉は英語にしづらい。「benefactor」という言葉があると言えばあるのだけれど馴染みのない言葉なので、もっと平たく表現できればと思っている。こういうところから日本語と英語の意識の違いが見えてきたりしないものだろうか?

いつも不安を感じる。仕事に入る前は仕事ができなかったらどうしようと考え、英語でなにかを書いたり話したりする前はなにも浮かばなかったらどうしようと考える。でも、できてしまう。自分の中の疑念を超えて身体は自然に仕事をし、英語を話す。だけどこの「自分を疑う」姿勢を捨てることはできない。それでいいのだろうと思う。ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読んでいた時、太陽が明日東から昇ることまでも疑う姿勢について語られているのを読んで「これが哲学的な態度というものか」と唸らされたことを思い出す。頭は疑うが、身体は正直に外部の刺激に反応する。それが生きるということなのだろう。